浦和マリーンズ

2002年8月28日
 千葉マリンで行われたファームの試合を見に行った。一軍が西武ドームで試合をやっているのにわざわざこっちを選んだのはなぜかというと

 西武に勝てそうに無いから。

 ま、それはそれとしてファームで今江や喜多、高橋薫を見てみたかったというのもある。勝敗に一喜一憂しなくて済むってのもあったのだが。

 試合、ダラダラと長すぎ。

 9時過ぎには終わったから時間自体はそこまで長くは無いのだが、何かダラダラ。

 まず先発の高木。4回に巨人打線に滅多打ちに合い6失点で降板。四球はなかったのだが二軍であれだけ打たれると当分上がれないだろうな。
 対して巨人の先発谷は良かった。3失点はしたもののボーリックの2ランが痛かっただけで、スライダーとか良かった。球が遅いのが気になったが、140出るようになれば一軍で活躍できるのではないかな。

 で、そのボーリックはホームラン。そこそこ集まった観客も大いに沸いてた。これが日本での見納めにならねばよいが。
 野手で一軍でも使えそうなのは、ボーリックと守備が堅実な喜多くらいか。寺本とか肩はあるのに守備が雑だし、丸山はあからさまに疲れが出てるし。今江も、さすがに今すぐどうこうという感じではなかった。

 で、試合展開も巨人先発の谷が降板した後は巨人の若手投手が四球を連発して、そのチャンスをゲッツーとポップフライで潰して、とどこかで見たような展開。つ、つまらん。

 投手陣も、亮寛が傷口を広げるばっかりで、最後に出てきた竹清が一番良かったというくらい。

 監督も大変、なのかそれとも監督のせいでこうなったのかはわからないが、ともあれ吸い上げる戦力もファームにはいないようで。厳しいですな。
「マルコビッチの穴」をBSで見た。

 すごい評価が分かれる映画だろうなとは思う。嫌いな人は徹底的に嫌いそう。誰よりもアメリカ国民が好むような映画では無いように思ったのだが。これに金を出したスポンサーに拍手。

 最初からコメディーではなかったと思うのだが・・・?コメディーだったのに途中から変わってしまったとか、そういう評価が多くて不思議。とりあえず全員マルコビッチの絵で少しニヤッとしたが。あれくらいでコメディーになると、ちょっと笑えるような作品は腹よじれるだろっていう気もする。

 久しぶりに映画のレビューを見て思った。

 作中の名前を使えよ、俳優の本名を使うな!

 「キャメロンディアスがあの穴に入って・・・」
って穴に入ったのは「ロッテ」だろうに。そういう映画好きって腹立たしい。名前が浮かばないのは判るがそれだったら「キャメロンディアスが演じてた女」とでも言えばいいのに。洋画に限らず邦画もそうか。

 作品に感情移入するタイプだから、実名出されてもピンと来ない。そもそも、名前を覚えない。
 他の人は感情移入しないのだろうか。世界に入り込まないのだろうか。そうしたら現実での名前なんて出せないと思うのだが。白けちゃって。

 これを見たせいで怪人二十面相はビデオ。ビデオって基本的に見なくなるから、どうなる事やら。どっちを見るべきだったのか。

 江藤のトレード候補に加藤だと。何考えてるんだ、一方的に。

 と、思うのだが私情を抜きに考えるとうーむ・・・25本打つ力のある内野手は確かに欲しい。加藤は大エースになりうる素材ではあるが、当然、そうならない可能性もある。そして、一回上位に食い込めばそこから数年はその余波で優勝を争える気もする。欲しいのは起爆剤ではある。

 まぁ、現実にはあり得ないトレードだが。年棒やら何やらで。

 しかし、巨人以外の球団を軽んじたこの話、以前巨人ファン今巨人シンパの身でもむっとくる。オリの金田も、江藤が不振じゃなくて釣り合う位だろうに。

 現実的には高野が欲しい。斎藤とかくれるならすごく欲しい。藤田あたりと交換できないだろうか。そういや、斎藤と加藤だったら実はつりあうかも。

インド帰り

2002年8月25日
 ヒンディー語を習いに半年間インドへ留学していた友達と会って話をした。

 学校でも習い、それ以前にも幾度か訪れていたそうでもはやインドで映画を楽しむほどだとか。羨ましい。その語学の能力が。

 語学って絶対に才能は関係あると思う。やはり、女性は才能ある。

 そりゃ、誰だってどこかへ放り出されてそれを学ばなければ生きていけないような状況になったら覚えるとは思うが、そうではなくて。
 必要も無いのに覚えるのが得意、とか楽しい、とかならばそれは絶対に才能は関係あるような気がする。

 歴史を面白く思える才能、とか楽しく覚えられる才能なんて要らないからそっちが欲しかったかも。人には、何かしら資質があるんじゃないかとは思うが、それが社会的に役に立つ資質かどうかは運次第。「1秒間に16連射」で一時的にせよ社会的地位を築いた人もいる。

 ってあれは嘘か。

 まぁ、幼女を愛でる才能、とかじゃなかっただけよしとするかな。

 言い訳がましい?

 そしてインド。行ってみたいとは思うが、優先順位はそれほど高くない。今上位争いをしてるのはトルコ、台湾、エジプト、チベットと中国南部。

 むしろパキスタンに興味あり。

織田信長

2002年8月24日
 ・鉄砲の三段撃ち→3000丁は証拠なし。長篠での勝因は兵力差と陣地の巧みさ。鉄砲を取り入れていたのはむしろ他。ちなみに武田の騎馬隊も嘘。
 
 ・楽市楽座→そういう政策もあることはあったが基本的な姿勢として従来の特権を保護していた。嘘ではないが、微妙。六角氏などが以前にやっていたというのもある。
 
 ・兵農分離→確たる証拠なし。やっていたといえばやっていたが、他の戦国大名もやっていた。

 そんな感じで信長が、司馬遼太郎が描いたように画期的かというとそういうわけでもないらしい。よく「現代にこそ信長のような人物を」と言っている人はいるが、こういう例を引き合いに出して「信長崇拝者」というレッテルを貼ってバカにする人が多い。

 ちょっとおかしい。
 
 そういう政策をやっていない方が信長本人の凄さは増すのではないかと思う。むしろ短期間であれだけ領土を拡大したことを、説明するのに色々と後から考え出された事(かもしれない)。そういう「ウラワザ」が無かったのだとしたら、それだけ、より以上に信長という人物の戦略・政略的な能力が凄かったという事。

 とすると「崇拝者」はかえって信長を貶め、それをバカにする人はかえって信長を持ち上げているという事になる。

無題

2002年8月23日
 本当の所の志望動機。

 ただ単に歴史が好きだっただけというのが本当の所だ。それも、狭い所を深く追求するのではなくて広い意味での知らない事、知らない史観を自分の中に入れるのが好きだったから。研究者ではないのはつまり、そういうところ。無論、研究者で食っていくのは至難の業だという現実的な問題もある。

 じゃあそれを職業にする必要は無いではないかといわれるとその通り。別に自分で色々とやればよい、趣味として調べればよい。ただ、自分がやりたい事で食べていければと思うとそういう事になる。

 作家になろうと思わなかったのは、身内にそういう人がいるから。単にいるからと言う他は無い。色々と理由はつけられる。
 良い面も悪い面も見てしまったから。比べられるのが嫌だから。右へ倣えをしてるようで嫌だから。血縁=才能だと勘違いしているみたいだから。
 まぁ、才能があるかどうかも分からないのに危ない賭けをする性格でもないというところもある。 

 あまり積極的な理由ではない。

 それらを積み上げた上での志望動機。と言ってもうそと言う訳ではなく。ただ、前提としての上記の考えが先にあったために生まれてきたという事。

 歴史のifで何かしたい。
 昨今の歴史のIF小説はまがい物だ。予想ではなく願望を書いている。きちんとした考証の元にその「もしも」があるとどんな歴史的効果が波及し、どんな事が考えられるか。それをもっと科学的に考えていきたい。様々な作家や歴史家の目から見てもらって「予想」を貰い、それらを「編集」して仮説を出していきたい。
 「if」は歴史に於いてタブーでもなんでもないと思っている。もしこれが起こらなければどうなっていたか、を検証する事によって「これ」の持つ歴史的意義が明らかになる。何よりエンターテイメントとしても面白いではないか。学会では出来ないだろうと思った。
 そんなifを復権したい。ifと名のつく小説群はちょっと酷すぎる。

 島国根性は、なんとかならないか。
 中国に行った時、寝台車の中である一家と親しくなった。お爺さんと、お婆さんと、そして孫娘。この上なく楽しい触れ合いだったし、お婆さんは「あなたは甥っ子みたいなものだ」とまで言ってくれた。 
 基本は筆談だったのだが、こっちが日本人と分かるとふと女の子が紙に書いた。「日本鬼子」、と。
 嫌な気持ちになったし、あぁ、これで終わりかなとも思った。
 が、女の子はニコニコと笑っていたし、お爺さんはそれを見て女の子を叱っていた。お酒もご馳走になった。少女とはそれからも仲良く遊んだ。
 「中国人=日本人嫌い」という前提が自分の中に
は常識としてあったが、それはどうやら偏見と予断の産物だったらしい。常識だと思っていた自分が恥ずかしくなった。
 多分、「中国人=反日教育」は本当だろう。ただ、それと個々人の付き合いは全く別の話だ。彼等にとって自分は日本人関係なく友達、そういう事だ。個々人の付き合いにまで勝手に当てはめていた自分は青かった。
 自分も青いが、日本人は、往々にしてそういう傾向にあるような気がする。島国根性というか、まずカテゴリーで相手を捉えているように思う。
 最初に、日本人であるかそうでないか。その次に、何人か。
 まず個人を見る、とそういう教育って必要ではないか。
 アメリカでは何よりもまずアメリカ人であるかどうかが重要だ。人種、肌の色、宗教はその次に来る。自爆テロ以降、国内の反イスラムの流れは根強くあるが、その暴走を食い止めているのがこのナショナリズム、それと徹底した差別禁止の教育だろう。
 ナショナリズムはそういう面で役に立つと思う。そういう面で、日本人にナショナリズムは無いと思う。あるのは結局民族主義だ。非モンゴロイドは当然として、在日韓国人にしてもそうだ。大体、呼び方がおかしい。韓国系日本人の筈。
 ただでさえそういう島国根性が酷いのだから、余計に反差別的な教育を「押し付け」なくてはならないと考えている。
 そういう観点から歴史の、ひいては社会の教材作りをしてみたかった。教師では、あまり解決にはならないから。

 右翼左翼の論争って不毛だと思っている。
 一時期興味を持って色々と調べた事があった。特に踏絵と化している南京の一件について。思ったのは、結局どちらも相手の言う事など聞いていないのだなという事。どうにも話が噛み合ってない。わざと曲解しているんじゃないかというような解釈でお互い罵り合っている。常に論点がずれている。
 で、調べるのをやめた。自分なりの見解が出たこともあるが、当時の混乱した状況下で決め手となる証拠が無い事(お互いにあると言っているが)と、証拠自体あやふやだからだ。写真は基本的に証拠と成り得ないし、証言はおかしいものが多い。日記資料なども、当時は様々な所で思惑が絡み合っているためどの人もどこかしらの団体の影響力を受けている。どんな証拠であれ宣伝目的でないと信じきる事が不可能。
 不毛だと思った。
 タチが悪いのが、お互いに自分のことを真ん中だと思っている事。結局レッテル貼りに終始している。
 もっと徹底的に話し合わせてみたい。対談でも何でもいいから主張を宣伝する場ではなくて議論する場を設けてみたいと思った。意見の近いもの同士の対談なんてなんの価値もない。多分、永久に結論は出ないのだろうけど、それでも朝まで生テレビとか、いつかやってたサンデー毎日の対談よりはマシなもの(ネットの掲示板なんて最悪に向いてない)って作れるはず。消化不良にならないような。 

 とまぁ、これらがやりたい事であるのは本当だが、それとは別に季刊くらいの歴史雑誌を作って、それで細々とでもいいから食べていければというのが願望としてある。ジャーナリスティックではないか。
 が、それをやるにも一度出版社に入らないと。中途でもいいとは言っても一度メビウスの輪に入らねばならない。そのためにはどんな出版社でもいいから入らないといけない。

 どんな出版社でも

 事ここに到ると、それを生み出すエネルギーってミーハ―な憧れの面じゃなかろうか。やりたい事とは関係なく熱意を示せるってのはそういう面が必要だと思う。
 そして、どうやら自分にはそれが無いような。最近やる気が、起きない。

卒論と留年

2002年8月22日
卒業も微妙なのに、卒論を書くために大学の図書館へ。

 が、論文を探してくるという作業はなかなかに楽しい。書庫にこもって一般書の参考文献から論文をあたり、そこからさらに参考文献を探し出すと言う芋づる式な作業に喜びを覚えてしまう。

 建国大学で書かれ、しかも非売品の本なぞを手に取れると変な興奮を覚えて一人図書館でうめいてしまう。

 そういえば虹色のトロツキーを読んで以来建国大学にも興味がある。実際のところはどんな感じだったのだろう。意外と知られていないものだな。

 普通の国では侵略を教えずにこういう大学建設を教えると思うのだが、日本は普通じゃなく良い国なのだろうか。

 遠ざかるシュウカツ。

男と女

2002年8月21日
 非常にしっかりした考え方を持っていて、社会の中での男女格差や、実生活の中でのジェンダーに不満を持っている女の子。直接の知り合いではないのだが、そういう子がいる。
 そんな子が、こう言ったらしい。

 「女に金を借りる男って最低。」

 笑うしかないと言えば笑うしかないのだが、これはなかなかに深刻なのかもしれない。

 確かに小さなレベルでの話ではあるし、常識的な考え方ではある。しかし、これを全くもって疑いもせずに、当然のものだと考えているとすれば問題のように思えてならない。

 例えば合コンでおごって貰った人が、ジェンダーを語っても何の説得力もないだろう。確かに男の方が強く求めている面はあると思う。が、そうすると女は何も求めずに、という事なのか。そうするとキャバクラ嬢とどう違うと言うのか。

 しかし、合コンで男がおごる事はどうやら常識であるらしい。

 が、それはジェンダーの観点から見たら非常識である。それに気がつかないというのは恐い事ではないか。

 女性にとって都合のいい規範は文化・慣習でありそうでないものは憎むべき差別である。
 そうではない、そんな事は誰も言っていない。そう思う人は多いと思う。当然、女性が受ける損失の方が多い。
 が、「レディファースト」という意味でのジェンダーはあまりにも無批判に受け入れすぎてはいやしないか。そういう意味での利益に無批判になるという事はジェンダー論から説得力を確実に失わせている。

 「女が料理出来ないなんて最低」

 これと同じ様な違和感を、「女に金を借りる男って最低。」との言葉に、本来ならば感じて然るべきなのだが・・・

 ・・・実は自分もあまり感じない。困った事、なのか?
やる度に久しぶりという気がしないでもないが、

 シュウカツ。

 最初の自己PRでかなり緊張したが、そこから力が抜けていくらかマシになった。

 よく、イスには浅く腰掛けろというが、それをやると緊張感が増す気がする。少なくとも自分は。深く腰掛けた方が安心し、リラックスして受け答えが出来ると思う。イスの座り方で落とすようなところはよもやないと思うから、深く座った方がいいような。

 しかし、何回面接をやっても後から後から浮かび上がる言い足りなさ。「あの時あれを言うべきだった。」どうにかならないものだろうか。

 逆にいうならばこれがないのに落ちるっていうのが一番ショックなのかもしれない。

 帰りに、いつ以来だろうか、ゲームを買った。「ドラゴンクエストモンスターズ1・2」。本当はかまいたちの夜2がやりたいのだが、PS2は高い。本体だけなら・・・と考えてもソフトをつけると3万オーバー。二の足を踏むうちに金がなくなる。

「くだらない小説」

2002年8月18日
 売れているというだけでそこには既に価値があるだろうに。

 誰のとは言わないが、小説には「くだらない小説」とそうでないのとがあるらしい。
 前者は主にライトノベルやら、そこから派生した作品群を書いている作家の作品である事が多い。

 これらの作品は明らかに扱い方が違う。新聞の書評なんかではまず絶対に取り上げられない。ある意味ではマンガよりも地位が低いといっても良いだろう。

 かといってこれらが売れていないかといえばそんな事はない。中高生向けのカバーツヤツヤの本などそこらの本など問題にならないくらい売れている。しかも、業界として健全なのだ。

 読者が作家のファンになり、それを書いてみたいと思うようになり作家を目指す。そうして若い人材が増えていく。だからといって面白くない作品は次々と淘汰される。そういう循環がある。大家の作品だからハードカバーで何万部、なんて世界とは違うのだ。

 例えば絵本を下らない、と言って貶す人はいまい。そこにはその良さがあるからだ。その本質的な良さをいつまでも心に持ち続けている人が絵本作家やその編集者になる事は社会的に認められているが、中高生向けの本などはそうは思われない。(大体にしてそういう作品を叩くのはそれに一度はまった人である。過去の自分が恥ずかしくなるのか)

 そういう本も、純文学も、等しく価値がある。(そして、等しく価値がないとも言える。)
 その価値を判断する一番大きい基準は売れているかどうかであろう。
 無論、それだけで推し量れない価値というのは確かにあるのだから、言い過ぎの感もあるが、やはり根源的にはそれが一番大きなウェートを占めるべきであろう。死語に評価される(売れる)ような作品は、言い換えるならば生前は無価値だったという事。

 こと紙媒体の作品に関して言えば「下らない」とは「面白い」と同義である(TVだとちょっと違う)事が多い。つまらなければつまらないと言われるだけなのだ。そして、学術論文でなければ面白い事にこそ意義があるのだ。

 そういう意味でつまらない作品を書いている者こそ下らないと言われるべきだと思う。

 多くの中高生に影響を与えている作品があまりにも世間から無視され、白眼視されているのが気にかかる。漫画と同じ位の位置で良いからもうちょっとこう、積極的に話題にされるべきなんじゃなかろうか。読者の世界をそこで完結させてしまうと、更なる悪循環にはまるような気がする。論評する事によって、いわゆる一般書との垣根がなくなり、視野が広がってオタク化しないで済むと思うのだが。今の状態は隔離に近い。

JAF出動

2002年8月17日
 ビックリした。参った。恐かった。

 祖母の家から帰る途中の高速道路、高井戸インターを過ぎたところで車がオーバーヒート。焦げ臭い匂いとともに緊急避難帯に文字通り緊急避難。

 もしも都合よく緊急避難帯が無かったらどうなっていたのかを考えると身も凍る思いではある。玉突き事故か、それとも後ろの車は停まれるのだろうか・・・

 JAFを待つ事一時間。少なくともここ一年で一番長い一時間。なんとも頼もしく見えるお兄さんの乗ってきたJAFのあの車の荷台に車ごと乗せられて高速を降りる。

 小さい頃はこういう牽引する車に憧れたものだったが、まさか大きくなってする方ではなく、される方になるとは夢にも思わなんだ。

 多分車は廃車。誰のせいでもなく、10年以上乗ってきて既にダメになっているようだった。

 結局終電に乗って帰宅。体力的にもそうだが精神的に非常に疲れた・・・ 
 高速道路ってのは立ってるとかなり揺れるものなのだと知った。これは人をかなりの不安に陥れる。そして、緊急の電話は避難帯にではなく、そこから少し歩いたところにしかないという事も。時速百キロで飛ばしてる車の横を、生身の人間が、数十センチしかない幅を歩くってのは恐怖である。

 あの、カリカリ言う異常な音と、焦げ臭い匂いを嗅いだ時の事はなかなか忘れられないような。

呼称

2002年8月16日
 それにしても東海はないもんだ。それじゃあ発想が「日本海」と変わらないじゃないか。どこの東だって言うんだろうか。

 太平洋も東海にしとけって。

 東シナ海。これもまぁ東海って意味だろう。中国の地図ではそのまんま、東海だった気もするが。east China sea って東中国海になるのだろうか。

 people’s republic of chinaが中華人民共和国の英訳だとするとchinaは中国とは呼べないのでは???そうするとchinaとは中華のことなのだろうか。

 考えているうちに混乱してきた。そうすると「東シナ海」という呼称は妥当というか、適当なものである気がする。すると、地理的な呼称としての「シナ」はOKという事になってしまう。インドシナ半島(インドとシナの間の半島、これが実は一番差別的では?)も然り。だとすると「シナの中国政府」という言い方はOKかというとそれはNG。

 嫌がっているんだからシナとは呼ぶなという考え方を取るとすると「東中華人民共和国海」という言い方になる。が、それはおかしい。中華人民共和国は国号であって地域名ではない。かといって「東中国海」だとするとchinaが=中国という事になって、people’s republic of chinaの意味が理論的に破綻する。

 それともなんだろう、中国そのものをシナと呼ぶ事は嫌がられるが、中国自体ではない何かをシナ付きで呼ぶのは問題ないって事か。東シナ海自体は中国ではないし。そういう公の海なのだから、日本が嫌がるかどうかも考慮に入れなければいけない、という事?

 そうすると日本海はどうかという話。かといって東海も如何なものか。あっちを立てればこっちが立たず。

って事は「東海」から対馬海峡を抜けて南にいくと「東海」に到り、そこから日本に向けて出ている船は「東海」地方沿岸を通って東京に到る、とそういうわけか。どうすりゃいいんだ。

 靖国の問題があまり大きくない今年のこの時期にこういう事が起こるって事は、韓国人は8月半ばになると何かそういう意識が高まったりするのだろうか。

愛媛

2002年8月15日
 昨日あんな事を書いたら今日のニュースで採択されたと知って吃驚。不意打ちに近い印象。

 てっきり愛知だと思ったのだが。いつもわが道を行く愛知。愛媛って何かそういう背景があるのだろうか。

 お盆で祖母の家へ日帰りで訪れる。延々と車を運転するのはやはりしんどい。当てにされて酒を思う存分飲まれてるのを見るのもある意味しんどい。

 イトコが部屋飼いしている犬を連れてきたのだが、これがなかなかに可愛い。人懐っこい上に吠えないのだ。人生の中で昆虫以外は金魚しか飼った事の無い身としてはなかなかに羨ましい。

 それでという訳ではないのだが、カメが飼いたい。

 それも陸ガメを買って部屋に放し飼いにしたい。

 それが最近の欲求。しかし、カメもなかなかにデリケートらしくて断念。

インド中国半島

2002年8月14日
 インドシナ半島を

 インド中国半島とは呼びたくは無い。

 そんな理由でシナという呼称も、ちょっと古いが三国人という呼称も許容したい。

 今の若い世代がこれらの言葉を使うのはどうかと思う。そういう風に習った訳ではないのにわざわざその呼び方を使うというところに恣意的なものを感じて気分がいいものではない。

 しかし、爺さん世代がこういう言葉を使うのは至極当たり前のことなのだ。叩く事は無かろう。誰にもそれを恣意的に使っているという証明は出来ないのだ。おそらく一生インドシナ半島と呼び続けるだろう。そこに何ら他意はないのだから。

 ただ、歴史を勉強していると支那という言葉自体に違和感がなくなるのは事実。そして便利である事も事実ではある。チベット人という言い方が普通に定着している以上、そして彼等を中国人とは呼びたくない人がたくさんいる以上便利は便利である。誰か、いい呼称を考えてくれればいいのだが。

 だからこそ、この呼び方がある種の踏絵になっている事は遺憾である。こんな呼び方程度で何がどうなるものでもないし、そもそも歴史の見方を「自虐」と「自賛」の2種類に分けるというのは大雑把に過ぎる。
 司馬遼太郎もシナと言っていたのだが。

 「大東亜戦争」も同じ。
 なのだが実は「第2次世界大戦における太平洋戦場」は日本でも呼称が一定していない。「あの戦争」という本が出た事からも分かるが、いくつも呼称があって思想によって呼び方が違う。右から順に「大東亜戦争」「十五年戦争」「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」というところか。「第2次世界大戦」も捨てがたいし、「日米戦争」もある。
 自らを中立だと思いたい中間派は「十五年戦争」をよく使うし、朝日系の人達は好んで「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ。

 「太平洋戦争」と呼んだからといってアジア侵略を無視してる!なんて声は聞いた事が無い。呼称なぞどうだって良いのだ。

 だから、「新しい歴史教科書」も良いと思う。そういう教科書があることは何も悪い事ではないし、むしろ無い事の方が逆に気持ち悪い。ああいう歴史観って、日本人のそれなりの割合が持っているだろうし、もっと右な教科書が出てきても良いくらいだ。その中で中道の種類も増え、バランスの取れた教科書も生まれてくるのではと考えている。

 ただ、位置付けとしては何の問題も無くても教科書としては大いに問題があった。
 利点としては物語性を重視して頭に入りやすくしている事、面白く読めるようにという情熱が見えること、文学史が分かりやすい事がある。
 が、欠点がそれ以上に多い。「日本版のルネサンス」など借り物の表現が多いこと、面白くしようという努力は見られるがそれに失敗している事である(結局これは無理なのではないか?)が、最大の失敗は「国史」の立場を前面に出している為に世界史の記述が圧倒的に少ない事だ。世界の四大文明くらいすべて紹介しなくてはどうしようもない。

 一つのテーゼとしては構わないのだが、これでは時代に逆行するしニーズにも応えられない。従って採択されない。当たり前の事である。受験に落ちる教科書なのだから。

 つまり、新しい歴史教科書はそのテーゼゆえに敗北したのではなくて、その中身ゆえに敗北したと言える。
 久々に自宅近辺を散策していると、世の移り分かりを感じてならない。

 すし屋→潰れる
 ゲームショップ→怪しげな健康グッズの販売会場
 本屋→歯医者
 ケータイショップ→整体医院

 どうやら我が町内には健康ブームが到来しているらしい。特に歯医者、町内に3つもあるのにまだ作るか。

 逆に本屋は不調。以前は近所に7軒あったというのに順調に減っている。これは前が異常すぎたというのもあり問題ないだろうけど。

 今が健康ブームなのかどうかはよく分からないが、少なくとも自分の中では気になる事がいくつかある。

 O脚。

 極端なまでにO脚なのだ。多分、これを直したら背が3センチくらいは高くなるんじゃないかというくらいのO脚。
 以前はこれが普通なのだと思っていたのだがどうやら違うらしい。成るほどと言うか、電車で立っていても疲れやすい訳だ。見比べてみると自分は突っ立っている感じがして、明らかにおかしい。見栄えも悪い。片足に重心をかけようものなら、棒で支えているというよりブーメランで支えているような印象。

 矯正するにはどうしたら良いかしばし考え、ヒモでぐるぐる巻きにして寝る事にしたが、変態だと誤解されそうなので止めた。寝つきも最悪。

 どうしたものか。

 ちなみに猫背気味でもある。そのせいだろう、腰も良くない。だから一日10時間も座り続けるデスクワークのバイトは正直堪える。

 そこまではまぁ、情けないと言うか笑い話なのだが、膝も良くない。これはちょっと嫌だ。

 高校時代にバレーボールをやっていたのだが、それで退部した。長時間走っていたりだとか、膝を曲げた状態で体重をかけると痛みが走る。シャレにならないくらい痛い。普段生活をしてるぶんには何とも無いのだが、何とかならないものだろうか。

 血液もドロドロだったという話。中性脂肪が規定値をちょっとだけオーバーしていたのだ。
 平均以下の体重でこれはショック。ラーメンの食べすぎ&金欠ゆえの牛丼食べすぎが原因だろうか。
 それ以来野菜ジュースを積極的に飲むようにしている。

 色々書き出してみると、なかなかに不健康である。良いのは目ぐらいか。なのに何もしない。どうでも良いわけではないのだけど。

 男はそういう面倒くさがりが多い様な気がする。
 女はダイエットにしろ健康にせよ、色々と徹底的にやってみるのが好きな人が多いかもしれない。

 自分の体に対する認識の違いというのがそこに影響しているのだろうと考えてみたり。

雑感。

2002年8月12日
 ・見に行くと連敗。
 ふぅ。まさに連勝ストッパー。海浜幕張駅はもうちょっと電車が来れば便利なのに。

 ・田中真紀子辞任。
 世論って恐い。皆あんなに好きだったのに。
 週刊誌が合併号になるこの時期を選んだ事に何か作為的なものを感じる。
 しかし、シュウカツという理由がなくなると週刊文春を読む気が失せる。コラムは面白いのだが、つり革広告を見てもスキャンダルだらけ。そういう事があったという事実さえ分かればネチネチと詳細をほじくる気にはなれない。 

 ・日ハム不祥事。もはや感覚が麻痺。
 多分今なら気にせずに買ってしまいそう。雪印は未だに買う気になれないが。これって先に出た方が損って事だろうな。金額は氷山の一角だろうからそういう問題でもないだろうし。
 気になるのは球団の行方。

 ・鳥栖高校の2年生投手は良かった。
 前近代的だと分かってはいるんだが・・・延長戦を一人で投げきるってツボ。怪我を押して走ったキャッチャーよりも顔色を変えない内山と、ダイビングしたライトに感傷。

 ・バイトと社員の関係って微妙。
 バイト間での打ち上げは人が来ても、社員が主催だと難しい。特に無理強いをせず、そのせいで人が集まら無い時の哀しそうな笑顔は胸に刺さる。
 

今日の日記

2002年8月11日
歴史を教える時に使う問題集、あれをどうにかしたい気持ちでいっぱい。

 大抵の人はそうだと思うのだが問題を解く時に問題文など読まない。前後の文章で何を問いたいのかを類推して答えを書いていく。それは何故かというと、問題文全体が大雑把に二つに分けられるからだろう。

 一つは、その時代背景をあまりにも大雑把になぞっているだけである為、読まなくても空欄を見るだけで大筋が分かってしまう場合。
 
 二つ目は、雑然とした、寄せ集めの文章であるため読んでもなんの役にも立たない(イスラム教徒はトゥール・ポワティエ・・・→これに関連してイスラム教徒が守らなくてはならない戒律は?って全然関連してないし)。

 そういうのを何とかしたい。問題集の大部分は実は問題文が占めているのにその部分が役に立たない、読むに値しないんじゃ切ない。
 例えば、ローマ史について出題するのならば「ローマ帝国崩壊の世界史的意義について述べなさい」の問題に対する論述解答の形式で問題文を作り、穴埋めにすれば一石二鳥だろうし、必然的によくまとまるだろうから役にも立つだろう。

 もっと問題文自体に意味を持たせたい。

 そして、「何故それを問うたのか」を解答欄に反映させたい。「ナポレオンが好きだった食べ物」など問わないのはそれが覚えるだけの意義が無いからだ。すると、覚えているかどうかを問うてくる設問というのはそれを覚えている事に意義があるからに他ならない。

 フランス革命を何故覚えなければならないのか。

 意外とこれは教えてもらえない事である。しかも、そういう因果関係を教えた方が暗記自体も実はスムーズにいったりする。スラブはスレイブ(奴隷)の語源なんだよと教えた方がスラブは絶対に頭に残る(ちょっと際どい例かもしれないが)。

 そういうのを作ろうと思ったときに、教科書の出版社ではまず無理。ただ市販の問題集を扱っているところでは反響がよく分からないかも。
 暗記だけをしてるとつまらないから、好きになってくれる人が増えない。だから覚える事を徹底的に排除して面白くすべきだ。

 ゆとり教育のそういう一面には反対できる。特に暗記科目といわれている歴史については。

 歴史を好きになる人は、一部の人に過ぎない。全員に好かれる事は絶対に不可能だし、それをやろうとするとそれは興味を持たせることではなく遊ばせることをする必要が出てくるからだ。

 好きになる才能のある人のためだけに歴史を教えてはいけない。無論、好きになるような仕掛けを施すべきではあるが、最終的には、「最低限これくらいは知っておかないと」というラインまでは暗記させるべきである。そうしないと将来、何かのきっかけで好きになる可能性すら摘んでしまう事になるからだ。徳川家康が何をした人かわからないと、30年後に時代小説を読もうとも思わないだろう。

 「フランス革命」を何故覚えなければならないか、その理由を教える事は全てそれを覚えさせる為である。間違ってはいけない。好きになってもらう為にではなく、覚えさせる為にそれをするのだ。

敦煌・2000年8月10日

2002年8月10日
「うわ、なんだこれ。」
 一口すすうなりシノが言った。三杯のプラスチック容器に注がれた湯のせいか、室内の空気がいつも以上にじっとりと重い。
 「げ、これやばいって。」
 オヤジが箸を置きながら険しい表情で言う。
 昨日のうちに買っておいたカップメンは明らかに失敗だった。懐具合と、何よりも好奇心を刺激されて買った庶民の味だが、日本のそれの美味しさが身にしみるだけの結果となった。
 「ごめん、俺もう捨てるわ。youはどうするよ?」
 「いや、俺も捨てるわ。こんな所にあれだけどな。」
 ベッドが三つ、それに熱風を吹かしている扇風機がある以外は何の色気も無い部屋のゴミ箱が見る見るうちに3人分の合成麺で一杯になっていく。
 「汁は、どうする?」
 「下に行ってトイレに流してくるしかないんじゃん?」
 オヤジが立ち上がりながら言う。
 「昨日は日本食食っちゃったからあまり金もかけられねぇしな。いいと思ったんだが。」
 ペットボトルの水に手を伸ばして、人心地ついた様子でシノ。
 結局朝飯はカップメンと同時に買ってきたワッフルのようなお菓子で済ます事となった。自然と水の減る早さも増していく。
 「今日は、じゃあタクシーしかないか。」
 youがなんとなく落ち込んだ声で言った。
 「ん、それでいーんじゃない?俺は早く牛乳が飲みてーよ。オヤジもいるか?」
 「俺はいいよ。」どことなく元気の無い様子でオヤジ。
 「ってなんなんだよあれ、賞味期限2年だっけ?お前はよくあんなの飲めるよな。」
 「俺は牛乳飲まないと落ち着かないんだよ、youだって卵が食いてぇっていつも言ってるじゃん。」
 「生はもういいけどな・・・おかげで昨日、あんなトイレに入る羽目になった訳だし。あぁ、タクシー恐ェ。」
 なんで俺だけ、といった面持ちで言った。

 玉門関は、中国漢代の西の国境であったとされる場所であり、それだけに遠い。宿を取っている敦煌から交通機関を使っては訪れる事は出来ない。主な交通手段はツアーバスであり、個人旅行者にはあまり便利とは言いかねる観光スポットであろう。

 360度砂しかない風景。その中に、永遠に続くかのように見える一本の道路。
 ・・・この赤タクがガス欠になったらどうすればいいのか・・・
 そんな事をボンヤリと考えながらペットボトルに手をやった。中身はとっくにお湯になっている。一口飲んで唇を湿らせ、ちらりとバックミラーに目をやると深刻そうな顔つきで2人共寝入っていた。中年女性ドライバーと目を見合わせてニヤッと笑い合う。

 結局昼頃にタクシーを捕まえた。1日貸しきるといくらになるのか、相場は全く分からなかったが値切った結果が日本円にして1人300円。こっちの感覚で言うと少し高い気もしたが、砂漠地帯特有の湿気のまるでない、生きながらミイラにされていくような間隔に3人ともそう長くは身を置きたくなかった。まして人通りも無い炎天下である。女性ドライバーとあって猜疑心も多少和らいでいた事もあった。

 例えるならば、穴のあいたモンブラン。そんな威容で玉門関はそびえ立っていた。そして、雲ひとつ無い青空は、そこに立ち尽くす3人を、目玉焼きの精神的兄弟にする事に成功していた。

 
 
 
 「これは俺の意見なんだから」

 ってのは単に自分の殻に閉じこもっているだけ。

 意見を出し合うと、必ずと言っていいほど聞くのがこの言葉。自分の意見がそんなに大事なんだろうか。

 相手と自分が全く同じ意見だなんて事は当然、ありえない。意見が違うという事は何を言おうとも「それは、違う。おかしい」と心の中では思ってるはずである。意見が違うのだから。

 そこをすり合わせていくのが人と人との話し合いというものだろう。自分の意見を考え直し、相手に伝わるように、相手の価値観の中に染みこむ様に、納得されるように話していく過程で相手の価値観、意見が自分の中に吸収されてより理解が深め合えるというもの。議論というものの存在価値とは相手を打ち負かす事ではなくそういうところにある筈だ。

 勿論、「そんな考えをもつ奴はバカだ」や、「その考えを持つこと自体が間違っている」なんてのは問題外である。

 が、「これは個人の意見だから」という免罪符がまかり通りすぎてはいやしないか。それを他人に聞こえるところで発した以上その免罪符は効力を失うはずである。

 思う分には勝手である。同様に、それに反対の意見を思う分にも勝手なはずではないのか。極端な話、その意見を聞いて嘲笑するのも勝手なはずであるから、やはり「個人の勝手な意見だから」は免罪符にはなりえない。 

 コミュニケーションを拒否して「自分の意見」を守ることは実は相当に失礼な事なのではないのだろうか。

 〇×教はこんなに素晴らしいんだ、との台詞に対して「信仰してはならない、」だとか「信仰する奴はバカだ。」などと言ってはならないが、「その教義にはこれこれこういう悪いところがあり、こんな理由でその教義は間違っていると思う」、という事は何も問題は無い。

 宗教がらみだと微妙な話になりかねないが、個々人の意見なんて結局皆軽度の宗教である。
 好学社の説明会へ。

 体温並の炎天下の中長袖長ズボンで外へ出るのはかなりの難儀。何が辛いって意外と辛いのが靴。最近毎日サンダルを履いている身としては靴下に革靴というのは蒸れて蒸れてたまらない。

 と、思っていたからだろうか。歩いていたら唐突に靴底がはずれた。抜けたのではなく、はずれた。恥ずかしい

 ではなく、惜しい、と思う。説明会ではなく面接だったら結構なネタになったのに。

 ならないか。

 結局がっぽがっぽと神楽坂の会場へ。素敵な姿。電車の中で足を組んだりすると、それはもう。

 説明会そのものはとりとめもなく。社長がその場にいるのに「社長はどんな方ですか?」と聞いてしまった変な靴のバカを除いては。

 名乗らず、発言もしない本人が悪い。

 社会の人材が欲しいというのは吉報。それに、周りを見渡してもこの時期だろうか、あまり人がいない。採用も2人だけだが、ちょっと希望が湧く。

 帰り道で高校時代の友に会ったのだが、テニス三昧で真っ黒。人生とは一年でこんなにも境遇が違ってしまうものなのだ。来年はどうであろう。

 ロッテは今日も勝ち。多分。異常に調子が良い。

 だがしかし、プライベート運はあまり良くない。説明されて無い事で批難され、説明されてもそれが共感できなく相手を凹ませる。色んな所でそうだ。直に会ってもそうなのだから、ましてやIT媒体では・・・

 やはり掲示板は不要かな。

 新書館が書類通過したのは素直に嬉しい。
バイトの最中妄想にふけっていた事を書いてみる。
 辻俊哉  23歳 右右 捕 240 5本   富永旭  19歳 右左 一 250 26本 
 丸山泰嗣 23歳 右左 二 300 6本
 青野毅  19歳 右右 三 260 24本
 今江敏晃 19歳 右右 遊 290 32本
 喜多隆志 22歳 左左 外 310 3本
 寺本四郎 22歳 左左 外 280 19本

 あぁ、本当にこれだけ活躍してくれたら文句は無いのだが。いや、将来的にこれくらいの活躍は望める選手ばかりである筈。3〜5年後は期待できそう。3〜5年後・・・再び妄想へ。

 捕手・・・辻 清水 椎木
  辻の可能性が高い。バッティングはどんぐりの背比べ。肩は清水、リードは椎木も何かを持っている選手。実は個人的にそれ程不安は無いポジション。清水でも悪くない。

 一塁・・・福浦 富永
  当分は福浦で安泰。富永の成長如何によってはまたライトへも。

 二塁・・・丸山 渡辺正人 塀内
  今季1軍ノーヒットでも、丸山が一番レギュラーに近い筈。渡辺正人は相当頑張らないと守備要員で終わるだろう。まさか堀や酒井が頑張ってるとは思わないが、そうなってたらお終いだ。
 
 三塁・・・澤井 青野 伊与田 今江 里崎
  なんだか初芝が頑張ってそうな気がしないでもない(汗)。澤井はちょっと厳しいか。青野は出てくるとしても後4,5年かかるだろうから、今江が回せないと厳しい。伊与田がキーポイント。コンバートすれば里崎は使える。

 遊撃・・・小坂 今江 塀内
  小坂はよほどの事が無い限り安泰。小坂を外すと防御率が0.5は悪くなる。今江は大きく育っているだろうからその時は三塁へ。ダークホースは塀内。プロ初安打初本塁打は侮れない。怪我次第。

 外野・・・サブロー 喜多 立川 大塚 寺本
  サブロー一歩リードか。立川は今年二桁打てれば(と言うか打て)3拍子揃ってるだけにしばらくは使われそう。大塚は厳しい。寺本、喜多はこれからの外野ポジション争いの大本命。
 ここでも諸積は結構元気そうな予感。

 で、そこら辺を加味し、外人と新人を除外して4年後の仮想オーダーを考えると

 1番 ライト   喜多
 2番 センター  サブロー
 3番 ファースト 福浦
 4番 レフト   立川
 5番 サード   今江 
 6番 セカンド  丸山
 7番 指名打者  寺本
 8番 キャッチャー辻
 9番 ショート  小坂

 うーむ。そんなにうまくいくだろうか。いや、今年良い野手を取れれば本当にうまくいってくれそうな・・・

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you

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