16ビットの微熱

2002年8月4日
 「RPGにストーリーを追い求めるのは、ゲームとしてだけではなく感動を求めるから」

 そんな反論があった。

 しかし、言いたい。ドラクエ3をリアルタイムでやっていた人間があんなにも感動したのは何故か。ストーリーではあるまい。あの物語をそのまま小説に起こしても、駄作中の駄作である。同じ事はプレステ以前のFFにも言える。

 「物語を見た」のではなく「冒険をした」からあんなにも感動したのではないか。それこそがゲームの存在価値である。
 ストーリーを追いたいなら本を読めばいい。
 ストーリーを体験したいからゲームをするのである。

 ちなみにドラクエ7は物語としては稚拙に過ぎると思う。なんで主人公が戦わなくてはならないのか。命をかけるに値するのか。意味が分からない。お遊びで命がけの冒険をした主人公がたまたま世界を救うってあんまりだ。それでも面白いのが本当に旅をしている感覚がそこにあるからだろう。逆にいえばその感覚を持ち得ない人はRPGには向かない。
 エピソード集としては優れていたが。

 話が飛んだが、長すぎるロード時間はこれと密接に関係する。作り手が演出過剰になっているのだ。

 「自分がやりたい事」がどうしても先に来るからロード時間が重くなる。作り上げられた自分のイメージを寸分違わぬ形で伝えようとするからそうなってしまうのだ。
 「受け手に楽しませる事」を先に考えればそんな事はないだろう。「見せる」ではない、一緒に「遊ぶ」という感覚が大事なのだ。PLAYするのだから。

 そういう意味でロード時間自体にではなく、演出にも問題がある。
 「ストリートファイター2」に代表される格闘ゲームの「キャンセル技」。これは操作している時間を少しでも削りたくない為に生まれた動作だ。
 そう、操作している時間=遊んでいる時間、なのである。

 どんなジャンルでもそうなのだが、何か作品を作る時に大事なのは「削る事」なのである。肉付けする事ではない。そしてそれが出来てるものは高品質の確率が大きい。
 つまり、あえて言い切るならばロード時間、そして演出時間が長いゲームはそれだけで既に作品として劣っていると言える。

 友人Aよ、「ヴァルキリープロファイル」「幻想水滸伝2」あたりはロード時間が少なくしかも面白かったぞ。ストーリー的にも良い。
 「ペルソナ」シリーズはゲーム性の問題を物語が超越してしまった珍しい例。

9999

2002年8月3日
自分で踏んだのが9999番。よかった、キリ番じゃなくて。

 誰か、踏んだ人はアピールお願いします。

我がゲーム論

2002年8月2日
 とりあえず、転載の許可は取った。昨日の日記を踏まえた上で眠くなるまで書いていこうと思う。

 RPGが過渡期に差し掛かっているのは確かだろう。オンラインゲームもその中の試みの一つである事は間違いない。個人的にはネットゲームは嫌いだが。なんで自分の憩いの場に仮想の人間関係を持ち込まなければならない?あれを面白いと感じる人は現実の人間関係に疲れ果てた人か、そもそも人間関係自体を持ってない人だろう。(FFオンラインの、あのCMの醜悪な事!「一人じゃ、ないもん」げろげろ。)

 ただ、だからといってRPGそのものの衰退期だとは思わない。

 わざわざ一行あけておいたが、ストーリー的に限界がきてるというのは全くもって当てはまらない。というより物語というもの自体に限界は無いのだ。マンネリ化してきているとしたらそれは作り手の問題とプレイヤーの趣向の問題であってジャンル自体の問題ではない。
 
 確かにゲームという媒体には「楽しめなければならない」という大前提があるが、何かを生み出すに当たってこういうある種の「縛り」は悪い方向へとは向かわない。むしろ、何もかも自由にやらせようとすると逆に良いものは出来ないものだ。

 斬新でなくても構わない。良質でありさえすれば面白いものにはなる。

 ドラクエは発売当時ですら既にありがちなお話だった。何百年も前から使い古された冒険物語。それが何故ここまで好評を博したのか。

 理由は二つ考えられる。

 一つは、ゲームとはシステムであるという事。
 一つは、ストーリーとはその世界に入り込むためのツールの一つに過ぎないという事。

 根底では繋がっているのだが、
 まず前者は言わずもがなだろう。ポケモンのストーリーに、誰が感動したか。本当に爆発的にヒットしたゲームでは、絶対に物語は主役ではありえない。いくら良質ではあっても、それが前面に押し出てはゲームの特性を生かしたとは言えないからだ(サウンドノベルは例外)。ちなみに、自分史上NO.1ゲーム「タクティクスオウガ」は凡百の書物など問題にならないほど重厚な物語を示してくれたが、それも完成されたシステムあればこそ、民族紛争という「出来事を体験」できたからこそである。

 後者はドラクエの町の台詞「〜の町へようこそ」という言葉に集約されている。
 これを単なる記号に過ぎない、と罵るのは不見識である。何故なら、どうしてその台詞が出てきたのか、そこを想像(創造でも可)する力に欠けているからだ。
 どうしてそのような台詞が生まれえたのか、「自分」との間にどんなやり取りがあったのか。何も頭で考えろというのではない。ドラクエの絶妙なところは様々な場面でそのような情景を「感じれる」ところなのだ。そこが、ゲームのゲームたる所以である。FFには、これがない。

 友の文中にあった、「ゲームの都合で街があるみたいだった」というのとは根本的にここで認識が違う。全てがお膳立てされてはそれは「感じている」のではなく「見せられている」事になってしまう。言うならば押し付けられているのだ。

 ドラクエでは「生きている」と感じ、FFでは「演技をしている」を感じるのはここらへんに原因がありそうだ。

 本とも映画とも違う、ゲームの最大の特性とは「自らの手で何かをする」という事。それが無くてはつまらない。FFの街には一通りの受け止め方しかないが、ドラクエの街、少なくとも自分の中では自分なりの「ラダトーム」が確かにある。(それは、事細かに情景を浮かべる、というのとは違って)

 結局RPGではなく、FFと、それに類する手法をとっているRPGの衰退、なんじゃなかろうか。

 そこからシーキングタイムの是非に展開するが・・・また今度。

 ちなみにここでのFF,DQはそういった特色を持つRPG群の代名詞的な扱いです。

我が友のゲーム論

2002年8月1日
 ・・・RPGの全盛期はSFC時代。はっきり言って僕はそう思っている。ここ数年で最後にやった新作RPGとなると「ドラクエ?」までさかのぼり、RPG界において双璧をなしてきたFFについては?、?とまるでやっていない。友人から「やって確かな情報を持つべし」との指摘を受けるのもいた仕方ないところではあるがそれなりに根拠を持った指摘であると思っている。PSの登場はRPGの衰退を先送りにはしたが解決どころか問題を助長させてしまったと言うこともできる。 SFCからPSへ、その過程でもっともわかりやすかったのがソフトがカセットタイプからCD−ROMタイプに変わったことである。余談だがここでPSとしているのは結果から見た言い方だ。ハード機器戦線については場を改めて触れてみたい。さて、CD−ROMによって大幅に変化したもの、それはそのまんま容量の変化であるが、つまるところデータをたくさん積み込めるわけでとりわけそれは音楽やグラフィックといった部分にあてられた。わかりやすいところではSFC時代まできわめて珍しかったボイスがPSになってからは頻繁に用いられるようになった。だが、それが問題となってしまった、そう思う。

 ファイナルファンタジー(FF)、きっとゲームをやったことのあるほとんどの方が開発会社まで存じ上げているだろう超有名タイトルである。はっきり言ってSFCまでのRPGの歴史はこのFFとドラクエの歴史だったと言ってもまるで過言ではない。他のソフトはまるでこの二作を超えることはできなかった。近年はそれほどには感じないだろうが、当時のこの二作は抜きん出ていた。もっともゆえにこの二作同士は比較されやすく、FF派DQ派に分かれて論議されるなどもあったが、DQがヒットしてからFFが作られたこともあってかなり対照的なものができあがった。FFの開発社、スクウェアはもともとはシューティングゲームの会社だったが、たいしたヒット作は作れず廃業する予定だった。そこで最後にスタッフで好きなものを作ろうという話になったところ大ヒットしてしまったいきさつがある。その開き直りが吉とでた。ドラクエはFCのRPGとしてはパイオニアだった。当時RPGとはパソコンゲームで存在していたが当時のパソコン普及率からいってFC層にはなじみないものだった。ゆえにドラクエはきわめて設定の単純なコンシューマー的ゲームを作らざるを得なかった。一方FFは好きなようにパソコン系のゲームを仕上げた。そのシステムはやや複雑だったがこれも大ヒットした。ご想像いただけただろうが、DQが世間にRPGを認知させなければFFは「難しすぎる」と非難されただろうというのが一般論である。そのご続々と新作を発表しRPGの存在感は圧倒的となった。

 さて、私の友人がFF?について以前感想を言ったことがあった。それによると、「FF?のフィッシャーマンズ・ホライゾンって街が好きだった。FF?の街はそれぞれにすごく生活観や文化が現れていて好きだ。これまでのRPGの街の概念というと?装備の買い替え?休憩、セーブ?新しいイベントときわめてゲームの都合からみて街があるようだったがFF?の街はすごくリアルだと思った」あれはこれからのRPGにぜひとも見習ってもらいたい部分である。
 ところがPSになってからのFFにはイライラさせられることも多い。先に述べたとおり、PSはCD−ROMを用いているがROM(ロードオンリーメモリ)は容量が多いかわりにいちいち読み出さなくてはいけない。だからデータの呼び出しをしなくてはいけないときに時間がかかる「NOW LOADING」の文字はもはや珍しくもない。RPGにおいて戦闘は避けては通れないものだが、いちいち時間がかかりすぎるのである。一回の戦闘ごとにデータの読み出しのために待たされる時間(シーキングタイム)がFFでおおよそ十数秒かかる。クリアまでを考えると実に5〜10時間が意味もない待ち時間といっていい。ちなみにDQはおよそ半分か1/3といったところだろうか?単純に考えてシーキングタイムは読み出すデータ量が多いほど時間がかかる。だからDQよりもグラフィックデータの多いFFはその時間が長い。これはRPGの抱える大きな問題だろう。しかしながら、昨今のRPG界はCD−ROMの持つ容量の利点を音楽とグラフィックにつぎ込んでいる。さまざまなタイトルが発表され、

 ストーリー的には斬新なアイデアのなくなってきているRPG界は

 もはや音楽とグラフィックで勝負する傾向が圧倒的に強くなっている。正直「スゴイ」と思えても「おもしろい」と思えるゲームがない。同時にグラフィックにチカラを入れた場合、ユーザーのイライラの種であるシーキングタイムは増加する。PS2になって処理スピードは上がったものの問題を完全に解決したわけではない。FFシリーズはこれからもその問題を助長しかねないと思っている・・・

挫折

2002年7月31日
 今日はゲーム論を書こうと思っていたのだが、失意のあまり挫折。

 第一学習社、リクナビだけで落とされるとは。
 さすがに初体験だぞ。
 これは凹む。 
 40字の文章で落とすって・・・  
 そんなに酷い事を書いた覚えはないんだが。
 
 などと散発的に頭に浮かんでは消えていき、茫然自失のあまり自棄酒。

 というようなことには最近はならない。

 あぁ、そうか。
 
 そう、思うだけ。多分良くない傾向なのだろう。感覚的に、昨今の方が3,4月の大企業よりも書類で落とす率が高いような気がする。書類だけで本当に絞ってるから書類さえ通ればかなりのところまで残ってる。そんな気がする。7,8月の方が明らかによく落ちているぞ。
 あんなに情報量が少ないのによくもそんなに決められるものだ。やはり、大企業はある程度真摯だったのか。

 それとも、単に自分がバカになってきただけか?

掲示板

2002年7月30日
 ホームページに掲示板は必要なのだろうか。いや、掲示板そのものを目的としているページや内輪のページならばそれでも良い。そうではない、何かを発信しようとして成立しているホームページに掲示板は必要なのか?

 大塚明というプロ野球選手がいる。

 それまでもとりたてて活躍したと言うわけではない。1年間フルで出たことも無い。正味3ヶ月でホームラン9本、打点50弱、盗塁17(くらい)を挙げた一昨年が最高の成績だろう。

 今年27歳になる彼は、今年明らかにおかしい。調子が悪いのか、力不足なのかは分からないが、結果が出ない。今日もノーヒット。そのうえエラーまで犯した。2軍行きも危ぶまれるし、選手生命も危ういかもしれない。

 素人が、いや、プロであっても外部の人間がその原因など分かるわけが無い。しかし、そこをあえて一つの要因に着目してみたい。

 ホームページの存在である。

 チーム1のモバイラーをである彼は、自らが実にこまめに関係するホームページを立ち上げた。そこには掲示板も設置され、本人もよく書き込むという事で大盛況であった。

 しばらくは良かった。成功と言って良いだろう。しかし、シーズンが始まり大塚本人が思うような結果が出せなくなってくると、当然(とは、思いたくないが)の如く、荒れてくる。しかも、その荒れ方が問題だった。

 散々悪口を言った後に、こう書くのである。「これもアキラのためを思って・・・」友達か?こいつは。

 インターネットという匿名の世界ですら「その人のため」という大義名分、錦の御旗を背負ってなければ物を言えない連中の言葉である。放っておけば、読まないで削除すればよかった。しかし、彼はそうはしなかった。そして、技術指導に精神論、果ては「出て来い」書き込みまで登場するに到って遂に行動にでた。

 DIARYの部分に痛烈な怒りの書き込みを行ったのである。

 その後、なんとか元の状態に戻そうと努力の跡は見受けられたが、程なくして掲示板は閉鎖されてしまう。

 やはり、放っておけばよかったのだ。反応をすると言う「コミュニケーション」を成立させる事によって大塚明は深みにはまったのではないか。プレーをしていてもどこかでそのことを考えてしまう。そんな妙な不安感が付きまとっていたのではないか。

 それは単なる些細なきっかけだったのかもしれないし、今でも重くのしかかっているのかもしれない。本当に何の影響も無いのかも、しれない。それはわからない。しかし、背負わなくても良い余計な重圧を背負い込んでしまったように思える。

 掲示板というコミュニケーションは何をもたらすのか。一番よく目に付くのは「曲解された」という曲解である。あらゆる掲示板は登録制にした方が良いのかもしれない。

 少なくとも、2ちゃんねるは嫌いである。

貧乏金無し

2002年7月29日
 今日、遂に携帯が停められた。

 いそいそと金を下ろして払いに行ったところ、めでたく復旧の運びとなるが参った事に残金がなんと205円しかなくなってしまった。ギリギリでジャンプが買えずに悔しい思い。15円くらいそこら辺に落ちてそうなものだが。

 預金残高は4000円強。最後の頼みの綱。これが無くなると金を稼ぎに行く事すら出来なくなる。

 それでも明日の電車でマンガを読んでることだろう。

開通

2002年7月28日
 高校の友人達との間にメーリングリストを開通させる。

 思うんだがこのメールという伝達手段は「旧友」というものを社会から抹消するんではないだろうか。
 気軽にやり取りできる分だけコミュニケーションが続くのだから、それも出来ない人は「旧友」未満の存在なのではなかろうか。
 この世代まではアドレスを知らない昔の友人も多いと思うが、これからの世代は皆アドレスを持つのだろう。国民総背番号制みたいなものでは、という気もする。

 昔の友達とはある程度断絶状態に置かれることで新しい世界に馴染んできたという面もあると思うのだがこれから先、すぐに心地よい「古きよき世界」に逃げ込む人が増えるかもしれない。

 という事はそれだけ初等教育と、それで出来た友人が大事になってくるのだろう。

 無論、普通に使っていれば便利な事この上ないツールではある。

飲み飲み

2002年7月27日
 ゼミ飲みと、バイト飲み。そして帰ったらワインがおいてあった。

 教育学部は就職が悪いそうな。どれくらい悪いかと言うと「早稲田の教育学部よりも帝京の法学部の方が就職がいい」程らしい。

 将来的にはいらない学部だからな。無理も無い。教員養成学校さえあればいいわけだし。むしろそっちの方がはるかに必要な気もする。

 いらないと言えば自分の中で心理学と言うのはかなりいらない。別に心理を学んでる友人が要らないというのではなく。
 
 深層心理がどうとか言われても、ぴんと来ない。そんな自分でもあるのか無いのかわからないような心理よりは、表層の意識の方がはるかに大事じゃなかろうか。

 納得できないものには不信感がある。占いとたいした差はないような気がする。
 心の専門家がもたらした人間関係の専門家依存体質が悪影響を与えているという話も聞いた。

 みずほに入った先輩は大変だそうな。謝る術に長けてきたとか。雪印に入った先輩と言い、そんなんばっかり。

魔球

2002年7月25日
 ・スノーミラージュボール。
 ・レインボースパークボール。
 ・サンダーバキュームボール。
 ・ハイパースピンブラックホールボール。

 最後の一つ、スペシャル版の魔球が思い出せない。「ミラクルジャイアンツ童夢くん」。

 野球マンガでは「ストッパー毒島」が好きだ。現実感溢れるパリーグの漫画。初芝がクネクネしていたり、「本日のミスマリーンズ」が描かれていたりとたまらん。イチローのリアルさは特筆ものだ。

 「キャプテン」と「プレイボール」も良い。特にどちらかと言うと「キャプテン」。人物の背景がほとんど描かれないホントに野球のみのマンガなのになぜあれほど人を感動させるのか。イガラシ編の最後の試合、9回にキャプテンイガラシがタイムリー2ベースを放ち、「ハァハァ、ついに、つかまえたぞ・・・」とつぶやく場面でまだ同点にもかかわらず応援の女の子が涙ぐむのがよくわかってしまう。

 ドカベンの面白さがわからない。

本日の日記

2002年7月24日
 GDに行ってきたのだが司会役の人がかなりはずれだった。15分しかないのに、最初、一人一人別個に意見を聞いて、しかもそれに自分のコメントを付け加えるか?これでは共倒れではないか。

 がっくり。

 とりあえずここまで。3日分、連続更新はきつい。
 

昨日の日記

2002年7月23日
 アルバイトで後輩の女の子と対立してしまった。

 それ程深刻な対立ではないのだが、ここまで人物評が食い違うとははっきり言って予想外。事は人事面、つまりはこの仕事の未来にも繋がるだけに重要ではある。一応。

 自分はもう少しでバイトを辞めざるを得ない(と良いのだが)人間だから、出来るだけ後輩の意見を重視してやりたい気持ちは充分にあるのだが、それにしても・・・というのはある。この仕事なら、この人は無いんじゃないか?と。

 そんな問題を解決できないまま球場へと赴き、私的観戦3連戦、最後の戦いへと臨む。

 高校の頃の友人で、中国へ一緒に行った時の3人がそのまま集まったのだが、それにしては序盤はイライラする試合展開。前半で8個は残塁があったのではなかろうか。かなり重苦しいムードが漂っていたのだが、後半遂に打線が確変モードに突入。一挙に二桁安打を上げて5−2の快勝。帰りの車も盛り上がった雰囲気で非常に楽しかった。

 当然のようにロッテの試合である。

 どうでもいいのだが、普通の人は腹筋100回をつづけてやれば効果が出るのだろうか。とりあえず一月ほど腕立て100回とともにやってみた事があるのだがあまり効果は出ず、「それくらいやれば簡単に腹は割れるな」との言葉にやる気が減退。肉がつきにくい体質らしい。

一昨日の日記

2002年7月22日
 観戦2連勝はとんと記憶にない。そんな一日。しかも二桁安打で7得点!?

 だから、村田修一が横浜に決まりかけているというニュースも余裕を持って見ていられる。決まったわけでもないし、横浜は日大にパイプがない筈。土井を4順目で囲い込むなどなかなか出来る訳もないし、何とかなるだろう。

 ロッテのスカウト陣は、かなり優秀だといってよい。ロッテというハンデを抱えながら黒木を見出し、逆指名してまで獲る選手ではないと酷評された小林を見出し、清水直を見出し。去年は情報操作でファンをも欺きながら喜多と今江という大物を獲るのに成功した。

 だから、動きが表れないからといって村田に動いてないとは思わないし、ここ数年日大の選手が増えている事からも接触はしているはず。そして、本人がロッテファンという噂すらある。

 つまり、村田を獲らない時は無理だったんではなく他に目星をつけたからである。それくらいスカウトを信用している。

 今は即戦力右腕という方向がマスコミで挙げられているが、絶対にこれの1,2フィニッシュは無い。自由契約となって情報操作の必要性がもたらした煙幕である。何にせよ、秋が楽しみだ。

 ただ、高校生は野手は要らないなぁ・・・ あんなに高校出の野手が育たないとは。即戦力レベルでないと厳しいような。

私的「夢」論

2002年7月21日
 高校の友人をのべ8人集めて飲んで、食った。うち一人は何年かぶりに会い、そして今度オペラで主役を張るという。

 そんな中、あるアツい男と教育についての激論を交わした。アツいのは悪い事ではない。が、良い事であると言い切りたくも無い。思った事を書こうと思う。

 子供に夢を。と、よく聞く。自然にあるなら良い事であろう。
 
 しかし、夢を持たなければ、と駆り立てられるような状況はいかがなものか。夢、とはしたい事、であるはず。それこそ50歳になって見つかる人だっている。見つかるのが早いのか遅いのか、本来その違いしかない筈なのに、早く見つかった人を褒め称える風潮は解せない。たまたま、目の前に興味を持てる事があっただけではないだろうか。

 仮に小学生がそういう風潮に追い立てられて自分では夢だと思えるものを持ったとして、それに向かって邁進した後「これは違う」と思っても後の祭りである。専門の教育を受けた後ではなかなか修正はきかないであろう。

 「おまえ、夢とかないのかよ」
 たまたま先に夢が見つかった人や、何年か先に人生を送ったおかげで夢が見つかった人間が、このような優越感を持つ事には疑問を感じざるをえない。

 たかが20年やそこらしか生きていない中で得た知識によって組み立てられた、「夢」など底の浅いものでしかないのではないか。早い時期に「自分」を規定するのはそんなに素晴らしい事なのか。

 これは、今の自分にも言えよう。これから考えざるを得ない。

 ところで

 ロッテは急に強くなってきた。これから成績がどう推移するかはわからない。野球と言うスポーツの特性である。が、しばらくは粘り強い野球を、零封されても「貧打線だ」ではなく「あの相手投手が素晴らしかった」と文句無しに言えるような試合を見れるであろう。

 で

 今日も見に行ってしまった。3−0から逆転勝利。素晴らしい。

ゾーマゲット

2002年7月20日
 これで我が家には実に

 スライム、スライムベス、メタルスライム(×2)、はぐれメタル、マリンスライム(×2)、ドラキー、キメラ、ゾーマ

 の10体が飾られている。いつかマイカーの後ろに飾ってやろう。

 これ、バイトの後輩(女)の一人には実に評判が悪い。というか、あからさまにオタクな扱いをされる。

 あまり反論も出来ない。

 「それ、どうするんですか?」
 「何に使うんですか?」
 「ニヤニヤしながら見てるんですか?」
 「楽しいんですか?」

 ・・・

 これが、高校の友人だとこうなる。
 
 「お、取れたのか」
 「やるじゃん」
 「どうやって取った?」
 「どこのゲーセンだ?」

 反応は様々。こうも違うと面白い。しかし、だ。

 いかになんでもドラクエぐらいやるだろう。ぬいぐるみはともかくとして、知らないっておかしくはないか?これだからお嬢様育ちは困る。プーさんだったらいいって言うのか。

 それはまぁ、知らないゲームのぬいぐるみ、ってオタクっぽいイメージはあるかもしれないが。

 結局郷愁なんだな。最近の物欲を促してるものが。「ぼくの夏休み2」が欲しい。「少年時代」は永遠の名曲だ。

連続更新

2002年7月18日
久しぶりにシュウカツ。暑い。

 教育出版の説明会と筆記試験。10人もいなかったのでうろたえたが、やはり何回かに分けて開催されてるらしい。ちっ。

 英語と国語のテスト。前日に数学を勉強するとこういう羽目になる。人生は厳しい。

 自分がどうこうというよりはもはや周りがどれくらい出来ているのか。否、どれくらいポカをしてくれているか。そんなテスト。

 「伝統」は「哲学」や「民主主義」と同じように明治になって和訳された漢語らしい。そのヤマト言葉を書け、って言われても困る。なんなんだ。表せないから「伝統」にしたんじゃないのか。わからなかった。以上。

 その後バイト。

 以前にこう書いた。「最近のバイトは質(シツ)が悪い」と。

 実は、不安がないわけではなかった。自分はただの爺さんで、過去を美化しているだけなのか、と。
 そうではない事が証明された。同期でバイトをはじめた友が、2年半ぶりに復活したのだが、なんとも素晴らしい仕事っぷりなのだ。

 しかもこの人、女だてらにインドに留学に行ってきたという剛の者。(最近インドに縁がある。行ってこようか。)しかも半年。おかげで留年、まだ3年生。これからもバリバリ働いてもらわねば。

 そんなわけで、やはり最近あまりよろしくない人が増えている事が分かった。これはこのバイトの傾向なんだろうか。お先は真っ暗。

インド旅行と敦煌

2002年7月17日
 そんけーする先輩が、インドで知り合った人。その人がホームページを作ったらしい。のぞいてみた。

 汚いシャワーの写真。

 それに苦悩する先輩その他。

 その様子を見て思った事がある。
 敦煌で泊まった、あの宿あのシャワーは、やはり尋常ではなかったのだという事。

 なんとまぁ、シャワーのドアが鉄格子で、丸見え。それはまぁ、一応外と直通してるわけではないのだが、かといってどこと繋がっているかと言うとトイレと繋がっていたのだ。

 どういう事かといえば、洗面所があって、お粗末なドアの向こうにトイレがある。そのトイレに入ると何故か鉄格子があり、向こうにはシャワーの蛇口が見えるという事。足元になんだかよく分からない水が溢れてるという事。

 安宿の経験が薄かったために、これが普通なんだと思い込んでいたのだが、そのインドのシャワーの写真にパッカー歴の長い先輩が愕然としていた為薄々感づいていた事実が明るみにでた。そうか、これは最低ランクのシャワーなんだ。

 道理であの部屋、異臭を放っていたわけだ。
 道理であの部屋、中国人しかいなかったわけだ。
 道理であの部屋、どこにも載っていないわけだ。

 そして、その時友が一人ホームシックになった。

 日本で1時間働けばその何倍もの金が手に入るんだ、一泊200円やそこらをケチるのは止めよう。そう、思う。

最近

2002年7月16日
 1日10時間働いているので更新の気力がありません。ネタはあれども気力なし。

 何が気力を削ぐかと言えば往復3時間の通勤(!)。それを考えると時給が300円も減ってた。やれやれ。

 書いたり書かなかったり。

 ここを読んでる個人的な友よ、代わりに書いてみたいと言う人がいたら原稿を送ってくれれば掲載するぞ。

 いないか、そんな奴。
 代わりに現金を強奪される。

実に久しぶりに大学の人間と会った。

 ローソンでバイトをしていて、コンビニ業界を主に回っていたらローソンに受かったという奴がいた。自己PRは「自信過剰です」だそうな。

 そういう人って失敗しやすいんだけど大丈夫?と問われたところ、「絶対に大丈夫です!」と自信過剰に答えたという話。

 1年の語学すら未だに取れない奴もいたが。

 バイト先に、先週号の「ビッグコミックスピリッツ」を置き忘れていったら、今日後輩の女の子に発見されてひどく軽蔑されるハメに。

 最近あの雑誌のグラビアがどんどんきわどい方向に走っていってるのは気のせいだろうか。前はパイナップルやら何やらのキャラクターが載っていた様な気がするんだが。

 マンガがつまらなくなっていくのに反比例して。

 20世紀少年はなかなかやらないし、「僕」は終わるし。一番最初に読むのが「殴るぞ」じゃさすがにキツイ。漫画自体もお色気路線を突っ走り気味。

 

赤目

2002年7月14日
 佐藤賢一の作品。

 原題は「赤目〜ジャックリーの乱〜」で文庫化する際に当たって「赤目のジャック」と改題されたのだが、個人的には原題の方が良い。この作品は、ジャックリーの乱を描いたものだが、不満を募らせた、絶望に満ちた農民達が赤目(邪眼)を持つ一人の男に魅せられる事によって貴族に対する狂気の大虐殺に走っていく話である。

 歴史上のジャックというのは存在が疑問視されているが、その扇動者としてのジャックに血肉を与えられたのが、「赤目のジャック」である。

 が、彼は断じてこの話の主役ではない。それどころか、(この話の中でさえ)反乱の主役ではないと思うのだ。それは何故か。
 彼はただの導火線に過ぎず、あくまでもその大虐殺は農民が、ひいては人間が欲していた事だからである。ジャックというのは人間の暗黒面と集団心理を擬人化した存在に過ぎず、実際に作中でも彼に「役割」はあるが「個性」は無いといっても良い。(意外に情けない男であると言う肉付けも見られるが、ジャックがそういう男であったという事と、「赤目のジャック」の誕生とは切り離されて考えられるべきではないだろうか)そういう意味でも作中のジャックは現実の、歴史上のジャックと同じく農民の総体が擬人化された存在なのだろう。それがそのまま血肉を得たのだ。

 であるから、「赤目のジャック」という個人名にちなんだ題はつけるべきでなかったと思うのだ。

 この作品は本当におぞましい。エロ小説どころかSM小説と言ってしまっても良いくらいである。農民の狂いきった姿に、家畜のように扱われる貴族、騎士、その子女。(イメージとしては「ベルセルク」のそういうシーンや「触」のシーンが延々と続くかのような)

 その吐きたくなるような描写の連続にもかかわらず、それだけだったという印象は残さない。

 主人公のフレデリは冷たい男である。表面は優しいが、上っ面のものであり最後の最後で自分のために女を裏切る。彼が最後に手に入れた本当の優しさとは、自分の事だけを考えた優しさを捨て、暴力と罵倒の上に成り立った優しさであった。自分のことだけ考える善良さではなく、壊す事に基づいた思いやり。

 それが答えではない、という事が作者の意図であるとすると穿ち過ぎであろうか。ジャックという触媒を通して心の闇を暴き、それによるフレデリの見出した読者に共感を与えるとは思えない結論で、その闇に基づいたそれぞれの結論が何かを問い掛けているのではなかろうか。

 フレデリの結論もまた、その意味では触媒に過ぎない。
 作者は結論を押し付けるような作りにはしていない。

 事実、この作品は異端であり、他の作品にまでフレデリの結論は波及しているわけではない。

 そう言った意味で、「楽しくはないが面白い本」であった。

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