私的公私

2004年3月24日
公的な部分と私的な部分の区別というのはとても大切。

 言うまでもなく、コネや血縁で物事を決める事は望ましくない。それがあるとしても、その人と人との結びつきの力が必要な時だけであり、その力はまたつまり公的な実力の一種ではあると思う。問題なのは、公的に、対外的にもその事によるメリットが全く無いのにコネや血縁で物事を決める、つまり私的な要因で物事を決める事である。非生産的な事に力を使うというだけでなく、周囲の人物のやる気を著しく削ぎ、自らの存在意義と周囲に疑いを持つことに繋がりかねない。

 公的な部分以外で他人を判断するという事に関しても同じ事がいえる。スポーツ選手は外でどんなに遊びほうけていても、結果さえ出せばよい。営業員が不倫に手を染めようが、成績さえ出して問題を起こさなければクビになど出来ない。
 これがもしも守られなかったら、人格的な判断で公的な部分まで評価されるようになってしまったならばとんでもないことになる。どんなに頑張っても気に入られないから左遷、ではたまった物ではなかろう(ままあることなのだろうが)。

 この事は、公的な事を自分のこと、私的なことを家族の事と置き換えても通じるだろう。自分のことの評価は自分の事だけで判断されること。これがしっかりと確立されていないと、家柄のせい、環境のせいで判断される事になる。それでは個人の評価が個人以外の部分で決まってしまう、連座制にほかならない。

 例外的に、政治家は自らに私的な部分は存在しないと言ってよい。個人的には仕事さえしてくれれば女を囲おうが変な性癖があろうと全く関係ないと思っているが。

 週刊文春が出版差し止めで提訴だなんだと問題になっている。
 文春の考える公私の別を聞いてみたい。知る権利とプライバシーの権利をはかりにかけて、知る権利を表現の自由にリンクさせているわけだが、この論法は非常に危険だと思う。ジャーナリズムの公私についての考え方を明確にした上で表現の自由を訴えないと、メディアや世論の盛り上がり次第では「敵対分子」や「自由の敵」に対する「報道」ではない、「攻撃」が正当化されかねない。つまり、いくら本人とは関係の無いところの話であろうと、メディアがそれを重要だといったら、知りたいと言い出したら中国人だからという理由だけで。イスラム教徒というだけで。自分どころかその家族の私的な部分を暴露される事になりはしまいか。表現の自由を侵されるのは戦前の悪夢だが、被差別民や被差別国民に対するメディアと世論によるリンチもまた悪夢であろう。 

 誰が、どこで区切るのか。

 政治家の家族だったら良いとするならば、例えば新潮系なら攻撃するであろう朝日系や学会系、さらには中国系の要人でも、その家族の事私的なことを報道する事もOKになってしまうのか。

 少なくとも、いくら公人であろうと本人ではない家族の、それも私的な部分を暴き出すのはどうかと思う。公的な部分であるかないかだけでは、政治家に限っては仕方ないと思う。プライベートなスキャンダルもありだろう。本人か家族かも、政治家の家族がどんな仕事をしているかなどは報道の自由を認めるべきであろう。しかし、この両方が重なった場合。というか、政治家でない人物のプライベートを暴き立てる事はもはやプライバシーの侵害を重く見るべきではなかろうか。

 そうでない限り、ゆくゆくはメディアの敵全てに対する「攻撃」が黙認される事になってしまうように思えてならない。何より、そういった出版社全体が、公と私の別を区別しない、私的なコネや血縁関係があからさまに存在し、明確な基準の無い好き嫌いで社員や人物を判断していると思われてしまうのではないかな。

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