反応して欲しくない

2004年3月14日
 分かる人には分かると思うが、「自分の人生だから、自分が楽しければ良い。自分の好きにする」という考え方が、この上なく嫌いである。「自分の人生は確かに自分の物なのだが、同時に自分だけの物ではない。」とは我が友の言である。

 子供を産む、という事は非常に重大な意味がある。子供を産むのは親の勝手なのだから、親は出来るだけの事をするべきであるし、しなければならないのではなかろうか。
 これを子の視点から見るとまた話は違ってくる。産んでくれたことに対する感謝の念というのは、持っていてしかるべきである。けれども、その感謝の念を期待して産むというのは論外であろう。恩着せがましく「産んでやった」と思ったとて、そう思うかどうかは実のところ分からないのだから。

 出来るだけの事をする気も無いのに子供を産むという事は、ペットを飼うことと同じなのではなかろうか。「子供のために出来るだけの事をする=自分の持っているものをいくらか失ってでも」ということ。つまり、リスクを考えずに自分にとって都合のいいものだけを手に入れようとする事が、つまり「自分が楽しければ良い」という事。ペットを飼うような事だという事だ。

 この場合の、「出来る事」。その中で、多くの割合を占めるのが「時間を割くこと」ではなかろうか。
 
 結論を言うならば、子供を産むからには両親のどちらかは仕事をするべきではないと思う。勿論、そうしなければ家計が成り立たないなどのやむをえない理由がある時は別である。ただ、そうであるが故に、そこまでしなくとも大丈夫な時は出来る事を、出来るだけするべきではないだろうか。「出来る事」をしないという事が既に、「自分は何も失いたくない、けれども子供は欲しい。」というエゴの産物であろう。何かを得るならばリスクは不可避であるのだから。

 無論、共働きの親の子供が、皆良く育たない訳ではない。きちんと時間をかけている親の子供が必ず良いというわけではない。しかしそれは確率の問題であって、より良い選択肢を選ぶという観点から見たらどうなのか。ベストを尽くした結果が悪くなったとしても、それは偶々であるが、ベストを尽くさずに良い結果が出たとしても、それもまた偶々である。
 人間、往々にして自分の経験を一般化しがちである。自分が共働きの家で普通に育ったのだから、そうしても大丈夫。という考え方には実は何の裏づけも無い。偶々、ベストを尽くさない低い方の確率を(とは言っても極端に低い訳ではなかろうが)体験したからといって、次も上手くいくとは限らない。その意味でも、出来るだけのことはするべきではなかろうか。

 「自分は何も失わずにいるけれども良い状態を維持し続けて自分を喜ばせてくれる存在」なんて仮想現実の中にしか存在しない。
 自分が楽しくなければその方が子供にとっても嫌だろう、なんて言い草は露骨で根拠薄弱な自己正当化にすぎない。自分が良い状態にいるために、自分以外の人間が泥を被っている事が世の中ほとんどである。
 
 この場合の「最善を尽くす人」は、何も女性でなくても構わないとは思う。別に、男性が家庭にいて女性が働きに出ても、良い。そもそも、仕事をやりたがる女性の気持ちがよく分からない。炊飯も洗濯も全自動になった昨今、仕事としての専業主婦は悪くない。これを嫌がるのなら、ほんの数十年前などはどうなのだろう。

 ともかく、覚悟の無い人が多すぎる。熟慮をした結果、家計や家族の事、自分の事などを総合的に判断した結果として仕事を続けるなら続けると、ようやく決めるような事だと思うのだが、何のためらいも無く、仕事を続けると言い切れる神経が分からない。結局のところ、「自分が人生を楽しめればよい」という考え方と、「子供は自分の人生を楽しくしてくれる」という認識のみが存在するのではなかろうか。
 そりゃ、少年犯罪も増えるわ。

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