駄文
2003年6月9日 反権力ってのはカタルシスを生む。
邪悪な魔王や暴虐な君主に立ち向かう市井の英雄、なんて図はその典型である。立身出世の物語なんて言うのもその範疇に入るだろう。それまで遠い世界にあって自分を見下してきた権力に、自分(主人公)を認めさせるところに快感が生まれる訳だ。
水滸伝などは、その両者をともに備えているから名作なのだろうな。
エンターテイメントの世界はそれで全く問題が無いのだが、新聞などにこれをやられるとちと困る。
野党的精神や批判精神は勿論、無くてはならないものなのだが、それ自体は非常に非生産的なもの。言うなれば外から見ている者の「ぼやき」に他ならない。民主主義にとって重要なのは、国民一人一人がいかに国政に参加するか、そして意見を反映させるかであり、メディアはそれを後押しして、国民の判断を助ける必要があるわけだ。
言い換えれば、メディアそのものは判断をする必要はない。判断そのものはあってもいいのだが、それを幾つも並べた上で、どれを取るかを読者に判断させるのが筋ではないか。
「ぼやき」をやられると、その判断に困る。批判は構わないのだが、それだけでは民主主義の重要点、「参加すること」は満たされないのではないかな。情報だけを伝えるという意義は、TVやインターネットの発達で完全に失われたのだから、シンクタンクの性格をもっともっと持つべきだろう。それも多面的な。「反権力」によって読者にカタルシスを与えても仕方があるまい。権力を毛嫌いするのではなくむしろ、よりよい権力を作り上げていく方向をこそ目指すべきではないか。
だから、社論が決まってしまっている今の新聞てのはどうなのだろう。読者の意見によって新聞が選ばれている今の状況は。判断は、新聞を読む事によって作られていくものだから、本末転倒ではないのかな。
邪悪な魔王や暴虐な君主に立ち向かう市井の英雄、なんて図はその典型である。立身出世の物語なんて言うのもその範疇に入るだろう。それまで遠い世界にあって自分を見下してきた権力に、自分(主人公)を認めさせるところに快感が生まれる訳だ。
水滸伝などは、その両者をともに備えているから名作なのだろうな。
エンターテイメントの世界はそれで全く問題が無いのだが、新聞などにこれをやられるとちと困る。
野党的精神や批判精神は勿論、無くてはならないものなのだが、それ自体は非常に非生産的なもの。言うなれば外から見ている者の「ぼやき」に他ならない。民主主義にとって重要なのは、国民一人一人がいかに国政に参加するか、そして意見を反映させるかであり、メディアはそれを後押しして、国民の判断を助ける必要があるわけだ。
言い換えれば、メディアそのものは判断をする必要はない。判断そのものはあってもいいのだが、それを幾つも並べた上で、どれを取るかを読者に判断させるのが筋ではないか。
「ぼやき」をやられると、その判断に困る。批判は構わないのだが、それだけでは民主主義の重要点、「参加すること」は満たされないのではないかな。情報だけを伝えるという意義は、TVやインターネットの発達で完全に失われたのだから、シンクタンクの性格をもっともっと持つべきだろう。それも多面的な。「反権力」によって読者にカタルシスを与えても仕方があるまい。権力を毛嫌いするのではなくむしろ、よりよい権力を作り上げていく方向をこそ目指すべきではないか。
だから、社論が決まってしまっている今の新聞てのはどうなのだろう。読者の意見によって新聞が選ばれている今の状況は。判断は、新聞を読む事によって作られていくものだから、本末転倒ではないのかな。
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