ダカーポ、1
2003年1月3日 ダカーポ新年合併号の、永江郎の文章が、あんまりにも目に付いたので検証してみた。読んだ人は分かると思うが、恣意的な抜き出し(マスコミがよくやる)はしていないはず。コピペができないので飛ばした箇所はあるが、著者の言葉の部分は切っていない。
あと、自分は「つくる会に入りたい!」とか考えてる類の人間ではない。断らないで「アンチ右翼」を批判するとそういう風に見られがち、って状況は異常だと思うが。
<この不愉快さは、例えば昨年の後半から続いていて今年に入って大爆発した感のある「日本語ブーム」の気色悪さと同根かもしれない。斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』および『同2』(ともに草思社)がバカ売れしたのに始まり・・・以下そういう著作名列挙・・・が売れ続けていて、書店では「日本語コーナー」が作られるのを見ると感じるあれである。ブームは「声に出す」という斎藤の意図を超えて(あるいは著者が無意識的に前提としていたのか)、「美しい日本語」や「理想的な日本語」の称揚に結びついてしまっている。>
ここまでは、まぁ良い。
<私はこういうブームが大嫌いだ。>
とと、いきなり結論が出てしまっている。分析をするでもなく批評をするでもなく、いきなり感情を吐き出すのは如何な物か。
<ひとつは、「やっぱり日本(語)っていいね」と手放しの日本礼賛になりやすいからなのと、日本語には正しい日本語と誤った日本語の二種類あるといった素朴な二元論に陥りやすいからだ。>
まず、「手放しの日本礼賛」になったとしてそれの何が悪いのかが全く書いてない。悪くはないのか?もし理由もなく悪いとするならそれこそ「手放しの日本礼賛は悪い」とする「素朴な二元論」という事になる。(そりゃ、盲目的国家賛美に疑問はあるが、それできちんと成り立ってるのが世のほとんどの国だ。)
そもそも、日本語の話をしてるのに、何故急に「日本語礼賛」ではなく「日本礼賛」になるのであろうか。悪質なすり替えではないか。日本語と現在の日本政府は、著者にとっては不可分なのだろうか。
「正しい日本語〜」のくだりにしても、何故そういう風に陥りやすいと思うのか、が全く書いていない。一つ前の文章にしてもそうだ。自分の想像を自分で批判してどうする。
<文法や語源に照らして正しかろうと間違っていようと、思っている事が通じればいいんだし、>
こういうこと書いてる人がモノ書きってのも悲しい話だが、著者は当然敬語など使わないのだろう。思っている事が通じればいいのなら、過去形すら使わないで相手の読解力に任せればよかろうに。
<いくら正しかったり美しくしてもちっとも響いてこない言葉なんてクズである。>
響いてくるような言葉を「美しい」と言っているのだろうに。本末転倒も甚だしい。正しくても、醜悪な使われ方をしていたら、それは問題ある。しかし、それは正しい=悪いという事にはなる訳ではない。正しくて、響くのならそれにこした事はないではないか。これも程度の低い詭弁だ。「正しい=響かない」という方程式を自分の中に作り出してそれを批判している。
<そもそも朗誦にマイナス面はないのか?>
ここで文章が終わっている。せめてマイナス面を探してから言って欲しいものだが・・・ それくらいしようよ。
<・・・(ナショナリズムについての前フリがあったあとに『反米という作法』を批判して)・・・ここで笑っちゃうのがサッカー・ワールドカップについての話。西部は日本代表を応援する気になれなかったという。その理由は、選手の多くが髪を染めているからで、それは欧米への劣等感のあらわれなんだそうだ(直前に帰化した三都主のような選手についてはどう思っているんだろう)。しかし、そう発言している西部はまさに欧米風の服を着て、欧米風の頭髪で欧米語に日本語の表記をそのまま当てた片仮名を連発しているのだから、説得力ゼロである。>
確かに西部は笑っちゃう。それはまぁいいのだが、その次、
<そんなのはご愛嬌として、何でコイツらは素朴に国家だの国民だのという物を信じてしまうのだろう。吉本隆明の『超「戦争論」』は、そうして部分を一刀両断にしている。>
なんで著者は、こんなに素朴にその反対のものを信じてしまうのだろうか。肝心の「一刀両断」の紹介はないのだが、同じ様な疑念は、自分の信じてる対象には向ける必要がないのだろうか。せめて同じ様に文章抜き出して比較し証明しないと、ただの「素朴な二元論」だろう。「国家=善ですよ〜」も、「国家=悪ですよ〜」もベクトルが違うだけでやってる事は同じだろうに。
<・・・(『国民の芸術』を評した文章)・・・この本の滑稽なところは2点。たとえば「縄文土器・土偶はすでに芸術である」なんてところだ。たしかに縄文人は日本列島に暮らした人々かもしれないし、現代の西欧的芸術観からすればまぎれもなく芸術的ではあるけれども、それが現代日本の「国民」といかなる関係にあるのか。>
著者は、イタリアの子供はローマ帝国の歴史を学ぶ必要がないと言いたいのだろうか。台湾の先住民の歴史を、中国からの移民者は学ぶ必要がないというのだろうか。
そもそも、関係はあるだろ、普通に。血のつながりがあるかは置いておいても、文化的な連続性は保たれているのだから。
<もうひとつは「天平のミケランジェロ・公麻呂」なんて物言い。「田舎のプレスリー」より本家のプレスリーの方が優れているのは自明であり、これじゃ公麻呂はミケランジェロより劣る、といっているようなものではないか。>
これはたしかにその通り。この連中は、文学やってた割には表現が借り物過ぎて情けなくなる。
<どうせなら「わが邦には≪芸術≫なんて概念はない」と言い切っちゃえばよかったのに。」
これは意味不明。それは知らなかった、と言うしかない。西欧的芸術観からすれば、と言いたいのだろうか(だとするとどっちが欧米コンプレックスなのか分からないが)。
<今年話題になった『親日派のための弁明』がある。旧日本帝国による植民地支配は、朝鮮のブルジョア革命、朝鮮人にとっての「祝福」だったという主張の本だ。これを日本に置き換えれば、ペリーの黒船外交は文明開化をもたらした祝福だ、とでもいうようなものか。>
人によって異論はあるかもしれないが、ペリーに関しては概ねそんな見方で良いと思うのだが。著者はペリーを悪逆非道な侵略者、とでも教わったのだろうか。最終的に自ら欧米化(亜流だが)して、それを良しとしている日本では、そういう教え方はあまり一般的ではないように思う。私見っちゃ私見だが。
<「自虐史観」で肩身が狭かった面々の中には、この「弁明」によって慰撫された人もいるのだろう。>
またも、「自らの想像を批判する」方法。頭が痛くなってくる。もっと中身があれば救われるのに、中身もないんじゃ。
あと、自分は「つくる会に入りたい!」とか考えてる類の人間ではない。断らないで「アンチ右翼」を批判するとそういう風に見られがち、って状況は異常だと思うが。
<この不愉快さは、例えば昨年の後半から続いていて今年に入って大爆発した感のある「日本語ブーム」の気色悪さと同根かもしれない。斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』および『同2』(ともに草思社)がバカ売れしたのに始まり・・・以下そういう著作名列挙・・・が売れ続けていて、書店では「日本語コーナー」が作られるのを見ると感じるあれである。ブームは「声に出す」という斎藤の意図を超えて(あるいは著者が無意識的に前提としていたのか)、「美しい日本語」や「理想的な日本語」の称揚に結びついてしまっている。>
ここまでは、まぁ良い。
<私はこういうブームが大嫌いだ。>
とと、いきなり結論が出てしまっている。分析をするでもなく批評をするでもなく、いきなり感情を吐き出すのは如何な物か。
<ひとつは、「やっぱり日本(語)っていいね」と手放しの日本礼賛になりやすいからなのと、日本語には正しい日本語と誤った日本語の二種類あるといった素朴な二元論に陥りやすいからだ。>
まず、「手放しの日本礼賛」になったとしてそれの何が悪いのかが全く書いてない。悪くはないのか?もし理由もなく悪いとするならそれこそ「手放しの日本礼賛は悪い」とする「素朴な二元論」という事になる。(そりゃ、盲目的国家賛美に疑問はあるが、それできちんと成り立ってるのが世のほとんどの国だ。)
そもそも、日本語の話をしてるのに、何故急に「日本語礼賛」ではなく「日本礼賛」になるのであろうか。悪質なすり替えではないか。日本語と現在の日本政府は、著者にとっては不可分なのだろうか。
「正しい日本語〜」のくだりにしても、何故そういう風に陥りやすいと思うのか、が全く書いていない。一つ前の文章にしてもそうだ。自分の想像を自分で批判してどうする。
<文法や語源に照らして正しかろうと間違っていようと、思っている事が通じればいいんだし、>
こういうこと書いてる人がモノ書きってのも悲しい話だが、著者は当然敬語など使わないのだろう。思っている事が通じればいいのなら、過去形すら使わないで相手の読解力に任せればよかろうに。
<いくら正しかったり美しくしてもちっとも響いてこない言葉なんてクズである。>
響いてくるような言葉を「美しい」と言っているのだろうに。本末転倒も甚だしい。正しくても、醜悪な使われ方をしていたら、それは問題ある。しかし、それは正しい=悪いという事にはなる訳ではない。正しくて、響くのならそれにこした事はないではないか。これも程度の低い詭弁だ。「正しい=響かない」という方程式を自分の中に作り出してそれを批判している。
<そもそも朗誦にマイナス面はないのか?>
ここで文章が終わっている。せめてマイナス面を探してから言って欲しいものだが・・・ それくらいしようよ。
<・・・(ナショナリズムについての前フリがあったあとに『反米という作法』を批判して)・・・ここで笑っちゃうのがサッカー・ワールドカップについての話。西部は日本代表を応援する気になれなかったという。その理由は、選手の多くが髪を染めているからで、それは欧米への劣等感のあらわれなんだそうだ(直前に帰化した三都主のような選手についてはどう思っているんだろう)。しかし、そう発言している西部はまさに欧米風の服を着て、欧米風の頭髪で欧米語に日本語の表記をそのまま当てた片仮名を連発しているのだから、説得力ゼロである。>
確かに西部は笑っちゃう。それはまぁいいのだが、その次、
<そんなのはご愛嬌として、何でコイツらは素朴に国家だの国民だのという物を信じてしまうのだろう。吉本隆明の『超「戦争論」』は、そうして部分を一刀両断にしている。>
なんで著者は、こんなに素朴にその反対のものを信じてしまうのだろうか。肝心の「一刀両断」の紹介はないのだが、同じ様な疑念は、自分の信じてる対象には向ける必要がないのだろうか。せめて同じ様に文章抜き出して比較し証明しないと、ただの「素朴な二元論」だろう。「国家=善ですよ〜」も、「国家=悪ですよ〜」もベクトルが違うだけでやってる事は同じだろうに。
<・・・(『国民の芸術』を評した文章)・・・この本の滑稽なところは2点。たとえば「縄文土器・土偶はすでに芸術である」なんてところだ。たしかに縄文人は日本列島に暮らした人々かもしれないし、現代の西欧的芸術観からすればまぎれもなく芸術的ではあるけれども、それが現代日本の「国民」といかなる関係にあるのか。>
著者は、イタリアの子供はローマ帝国の歴史を学ぶ必要がないと言いたいのだろうか。台湾の先住民の歴史を、中国からの移民者は学ぶ必要がないというのだろうか。
そもそも、関係はあるだろ、普通に。血のつながりがあるかは置いておいても、文化的な連続性は保たれているのだから。
<もうひとつは「天平のミケランジェロ・公麻呂」なんて物言い。「田舎のプレスリー」より本家のプレスリーの方が優れているのは自明であり、これじゃ公麻呂はミケランジェロより劣る、といっているようなものではないか。>
これはたしかにその通り。この連中は、文学やってた割には表現が借り物過ぎて情けなくなる。
<どうせなら「わが邦には≪芸術≫なんて概念はない」と言い切っちゃえばよかったのに。」
これは意味不明。それは知らなかった、と言うしかない。西欧的芸術観からすれば、と言いたいのだろうか(だとするとどっちが欧米コンプレックスなのか分からないが)。
<今年話題になった『親日派のための弁明』がある。旧日本帝国による植民地支配は、朝鮮のブルジョア革命、朝鮮人にとっての「祝福」だったという主張の本だ。これを日本に置き換えれば、ペリーの黒船外交は文明開化をもたらした祝福だ、とでもいうようなものか。>
人によって異論はあるかもしれないが、ペリーに関しては概ねそんな見方で良いと思うのだが。著者はペリーを悪逆非道な侵略者、とでも教わったのだろうか。最終的に自ら欧米化(亜流だが)して、それを良しとしている日本では、そういう教え方はあまり一般的ではないように思う。私見っちゃ私見だが。
<「自虐史観」で肩身が狭かった面々の中には、この「弁明」によって慰撫された人もいるのだろう。>
またも、「自らの想像を批判する」方法。頭が痛くなってくる。もっと中身があれば救われるのに、中身もないんじゃ。
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