差別をする人が悪いのだ。

 全くもって正しい事だ。問題は、差別する方にある。

 だが、差別をなくす為の手段として、差別する側の問題を言い立てる、差別する側の意識改革を図るというのは有効なのだろうか。

 結局差別がなくなるときというのは、「差別をした方が損する状況」になった時でしかないのでなかろうか。

 運動の盛り上がりによって社会的に糾弾されればそれは損失を被る事になるのだからやめるようになる、と。やめざるを得ないのではなく、その方が得だからやめる。そうならないとなくならないように思う。

 ましてや、差別される側ではない人が展開する差別論に、積極的な意味があるのだろうか。「あいつは差別してやがる」という差別を精神的に生み出して、優越感に浸るという行為に。

 人間は差別をする生き物だと言う意味では精神的な意味での差別は絶対になくならないが、それよりもエゴ、利潤を選ぶ生き物である側面の方がはるかに強いのだから、即物的な意味での差別は全廃可能じゃないか。

 で、ちょっと極論に走るが差別は構わないと思う。少なくとも今の日本においては「差別すべし」という法律があるわけじゃない。差別と区別の違いは厳密に存在しうるかどうか分からないから、ある面から見た区別がある面から見た差別という事はあるだろう。が、主観的な見方で見た時にあからさまな基準で差別を許容、推奨してるわけではない。

 ならばその後は差別によって利益を得てる側と被害をこうむってる側とのせめぎ合いだ。その利益を不利益が上回らなければ、法律自体にはあまり意味はない。

 あまり「上からの革命」でどうにかしようとしないほうが良いのではないか。被害を被ってる側が不利益を差別者に与えるしかないのだから。

 観念的な意味であまりダメだダメだ言ってもしょうがない。

 無論、そういう声の高まりが不利益の誘導に繋がる場合もあるのだが。

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