東海と国歌と恣意

2002年9月24日
 本来、個人名以外の名称は「決める」ものではないだろう。いつの間にか「決まる」ものであるはずだ。

 あだ名を考えてみると分かる。人にはそれぞれいくつかの友人関係があり、それぞれで呼ばれている呼称が異なる事はよくある事だ。

 イチローも、ひょっとしたら名字の方であだ名をつけてる旧友がいるかもしれない。名字とも名前とも全く関係の無いあだ名もあるかもしれない。けど、そう呼ばれる事が多いから、その方がなじみがあるから「イチロー」という名で登録されてしまったわけだ。まぁ、営業面も否定は出来ないが、メジャーの時は馴染みと親しみ優先だろう。

 それをもしも、イチローという名は自分が一番であるという傲慢だ、などと言い出して、自分達が勝手に呼んでるあだ名に登録名を変えさせようとしたらどう思うか。うちの子が一郎で、紛らわしいから「鈴木」にしろ、なんて言い出したらどうか。

 地名も自然に「決まっていく」ものであって、「決める」物では本来、ない。韓国が日本海を改名したかったら自分達で「東海」と呼び続けるしか手段はない。それが自然と流通するようになる日まで。少なくとも「日本海」は日本がIHOに働きかけた結果だなどという話は聞いた事がない。

だから、歴史的に一番最初の例がどう、とか江戸時代はどう、とか何の意味もない。「そうなった」ことが重要なのでは。

 恣意的であるかそうでないか、それは重要ではないか。

 と同じ意味で、日の丸と君が代は国旗と国歌でいいんじゃないかと思う。

 君が代の歌詞がよく問題になっているが、あれの意味が良く分かる人というのはどれくらいいるのだろうか。それも小中学生の頃から。

 はっきり言って意味不明の歌詞でしかない。

 で、校歌が学校の歌で、国歌が日本の歌だと思えばなんて事はなく歌うだろう。少なくとも自分とその周りでは「変な歌」とか言いながら抵抗なく歌った物だが。

 勿論、強制されるべき物ではないし、戦争に行った人が苦々しく思って歌わないのは分かる。そこには色々な何かがあったのだろう。

 が、そういった実体験がない人が観念的に嫌がるというのは、その方がよっぽど思想の押し付けではないか。いや、押し付けられた結果と言うべきか。

 「鬼畜米英♪」とか歌ってるならともかく、それだけでは意味が分からないものを「恣意的に」嫌がるというのは。それでは国歌による「洗脳」を嫌がってわざわざ他の「洗脳」に身を投じているような物ではないか。

 繰り返すが、歌えと言っているのではない。宗教的な問題がある人、戦前の記憶がある人、色々いると思うし、そういう人に押し付けるのは醜い行為だ。

 が、そういうの無しに恣意的に嫌がるというのはその嫌がる対象と同じ地平にある行為ではないのか?と思う。

 日の丸も同様。
 というか、日の丸になるともはや実体験もなしに嫌がる理由がよく分からない。日の丸弁当も駄目か?

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