無題
2002年8月23日 本当の所の志望動機。
ただ単に歴史が好きだっただけというのが本当の所だ。それも、狭い所を深く追求するのではなくて広い意味での知らない事、知らない史観を自分の中に入れるのが好きだったから。研究者ではないのはつまり、そういうところ。無論、研究者で食っていくのは至難の業だという現実的な問題もある。
じゃあそれを職業にする必要は無いではないかといわれるとその通り。別に自分で色々とやればよい、趣味として調べればよい。ただ、自分がやりたい事で食べていければと思うとそういう事になる。
作家になろうと思わなかったのは、身内にそういう人がいるから。単にいるからと言う他は無い。色々と理由はつけられる。
良い面も悪い面も見てしまったから。比べられるのが嫌だから。右へ倣えをしてるようで嫌だから。血縁=才能だと勘違いしているみたいだから。
まぁ、才能があるかどうかも分からないのに危ない賭けをする性格でもないというところもある。
あまり積極的な理由ではない。
それらを積み上げた上での志望動機。と言ってもうそと言う訳ではなく。ただ、前提としての上記の考えが先にあったために生まれてきたという事。
歴史のifで何かしたい。
昨今の歴史のIF小説はまがい物だ。予想ではなく願望を書いている。きちんとした考証の元にその「もしも」があるとどんな歴史的効果が波及し、どんな事が考えられるか。それをもっと科学的に考えていきたい。様々な作家や歴史家の目から見てもらって「予想」を貰い、それらを「編集」して仮説を出していきたい。
「if」は歴史に於いてタブーでもなんでもないと思っている。もしこれが起こらなければどうなっていたか、を検証する事によって「これ」の持つ歴史的意義が明らかになる。何よりエンターテイメントとしても面白いではないか。学会では出来ないだろうと思った。
そんなifを復権したい。ifと名のつく小説群はちょっと酷すぎる。
島国根性は、なんとかならないか。
中国に行った時、寝台車の中である一家と親しくなった。お爺さんと、お婆さんと、そして孫娘。この上なく楽しい触れ合いだったし、お婆さんは「あなたは甥っ子みたいなものだ」とまで言ってくれた。
基本は筆談だったのだが、こっちが日本人と分かるとふと女の子が紙に書いた。「日本鬼子」、と。
嫌な気持ちになったし、あぁ、これで終わりかなとも思った。
が、女の子はニコニコと笑っていたし、お爺さんはそれを見て女の子を叱っていた。お酒もご馳走になった。少女とはそれからも仲良く遊んだ。
「中国人=日本人嫌い」という前提が自分の中に
は常識としてあったが、それはどうやら偏見と予断の産物だったらしい。常識だと思っていた自分が恥ずかしくなった。
多分、「中国人=反日教育」は本当だろう。ただ、それと個々人の付き合いは全く別の話だ。彼等にとって自分は日本人関係なく友達、そういう事だ。個々人の付き合いにまで勝手に当てはめていた自分は青かった。
自分も青いが、日本人は、往々にしてそういう傾向にあるような気がする。島国根性というか、まずカテゴリーで相手を捉えているように思う。
最初に、日本人であるかそうでないか。その次に、何人か。
まず個人を見る、とそういう教育って必要ではないか。
アメリカでは何よりもまずアメリカ人であるかどうかが重要だ。人種、肌の色、宗教はその次に来る。自爆テロ以降、国内の反イスラムの流れは根強くあるが、その暴走を食い止めているのがこのナショナリズム、それと徹底した差別禁止の教育だろう。
ナショナリズムはそういう面で役に立つと思う。そういう面で、日本人にナショナリズムは無いと思う。あるのは結局民族主義だ。非モンゴロイドは当然として、在日韓国人にしてもそうだ。大体、呼び方がおかしい。韓国系日本人の筈。
ただでさえそういう島国根性が酷いのだから、余計に反差別的な教育を「押し付け」なくてはならないと考えている。
そういう観点から歴史の、ひいては社会の教材作りをしてみたかった。教師では、あまり解決にはならないから。
右翼左翼の論争って不毛だと思っている。
一時期興味を持って色々と調べた事があった。特に踏絵と化している南京の一件について。思ったのは、結局どちらも相手の言う事など聞いていないのだなという事。どうにも話が噛み合ってない。わざと曲解しているんじゃないかというような解釈でお互い罵り合っている。常に論点がずれている。
で、調べるのをやめた。自分なりの見解が出たこともあるが、当時の混乱した状況下で決め手となる証拠が無い事(お互いにあると言っているが)と、証拠自体あやふやだからだ。写真は基本的に証拠と成り得ないし、証言はおかしいものが多い。日記資料なども、当時は様々な所で思惑が絡み合っているためどの人もどこかしらの団体の影響力を受けている。どんな証拠であれ宣伝目的でないと信じきる事が不可能。
不毛だと思った。
タチが悪いのが、お互いに自分のことを真ん中だと思っている事。結局レッテル貼りに終始している。
もっと徹底的に話し合わせてみたい。対談でも何でもいいから主張を宣伝する場ではなくて議論する場を設けてみたいと思った。意見の近いもの同士の対談なんてなんの価値もない。多分、永久に結論は出ないのだろうけど、それでも朝まで生テレビとか、いつかやってたサンデー毎日の対談よりはマシなもの(ネットの掲示板なんて最悪に向いてない)って作れるはず。消化不良にならないような。
とまぁ、これらがやりたい事であるのは本当だが、それとは別に季刊くらいの歴史雑誌を作って、それで細々とでもいいから食べていければというのが願望としてある。ジャーナリスティックではないか。
が、それをやるにも一度出版社に入らないと。中途でもいいとは言っても一度メビウスの輪に入らねばならない。そのためにはどんな出版社でもいいから入らないといけない。
どんな出版社でも
事ここに到ると、それを生み出すエネルギーってミーハ―な憧れの面じゃなかろうか。やりたい事とは関係なく熱意を示せるってのはそういう面が必要だと思う。
そして、どうやら自分にはそれが無いような。最近やる気が、起きない。
ただ単に歴史が好きだっただけというのが本当の所だ。それも、狭い所を深く追求するのではなくて広い意味での知らない事、知らない史観を自分の中に入れるのが好きだったから。研究者ではないのはつまり、そういうところ。無論、研究者で食っていくのは至難の業だという現実的な問題もある。
じゃあそれを職業にする必要は無いではないかといわれるとその通り。別に自分で色々とやればよい、趣味として調べればよい。ただ、自分がやりたい事で食べていければと思うとそういう事になる。
作家になろうと思わなかったのは、身内にそういう人がいるから。単にいるからと言う他は無い。色々と理由はつけられる。
良い面も悪い面も見てしまったから。比べられるのが嫌だから。右へ倣えをしてるようで嫌だから。血縁=才能だと勘違いしているみたいだから。
まぁ、才能があるかどうかも分からないのに危ない賭けをする性格でもないというところもある。
あまり積極的な理由ではない。
それらを積み上げた上での志望動機。と言ってもうそと言う訳ではなく。ただ、前提としての上記の考えが先にあったために生まれてきたという事。
歴史のifで何かしたい。
昨今の歴史のIF小説はまがい物だ。予想ではなく願望を書いている。きちんとした考証の元にその「もしも」があるとどんな歴史的効果が波及し、どんな事が考えられるか。それをもっと科学的に考えていきたい。様々な作家や歴史家の目から見てもらって「予想」を貰い、それらを「編集」して仮説を出していきたい。
「if」は歴史に於いてタブーでもなんでもないと思っている。もしこれが起こらなければどうなっていたか、を検証する事によって「これ」の持つ歴史的意義が明らかになる。何よりエンターテイメントとしても面白いではないか。学会では出来ないだろうと思った。
そんなifを復権したい。ifと名のつく小説群はちょっと酷すぎる。
島国根性は、なんとかならないか。
中国に行った時、寝台車の中である一家と親しくなった。お爺さんと、お婆さんと、そして孫娘。この上なく楽しい触れ合いだったし、お婆さんは「あなたは甥っ子みたいなものだ」とまで言ってくれた。
基本は筆談だったのだが、こっちが日本人と分かるとふと女の子が紙に書いた。「日本鬼子」、と。
嫌な気持ちになったし、あぁ、これで終わりかなとも思った。
が、女の子はニコニコと笑っていたし、お爺さんはそれを見て女の子を叱っていた。お酒もご馳走になった。少女とはそれからも仲良く遊んだ。
「中国人=日本人嫌い」という前提が自分の中に
は常識としてあったが、それはどうやら偏見と予断の産物だったらしい。常識だと思っていた自分が恥ずかしくなった。
多分、「中国人=反日教育」は本当だろう。ただ、それと個々人の付き合いは全く別の話だ。彼等にとって自分は日本人関係なく友達、そういう事だ。個々人の付き合いにまで勝手に当てはめていた自分は青かった。
自分も青いが、日本人は、往々にしてそういう傾向にあるような気がする。島国根性というか、まずカテゴリーで相手を捉えているように思う。
最初に、日本人であるかそうでないか。その次に、何人か。
まず個人を見る、とそういう教育って必要ではないか。
アメリカでは何よりもまずアメリカ人であるかどうかが重要だ。人種、肌の色、宗教はその次に来る。自爆テロ以降、国内の反イスラムの流れは根強くあるが、その暴走を食い止めているのがこのナショナリズム、それと徹底した差別禁止の教育だろう。
ナショナリズムはそういう面で役に立つと思う。そういう面で、日本人にナショナリズムは無いと思う。あるのは結局民族主義だ。非モンゴロイドは当然として、在日韓国人にしてもそうだ。大体、呼び方がおかしい。韓国系日本人の筈。
ただでさえそういう島国根性が酷いのだから、余計に反差別的な教育を「押し付け」なくてはならないと考えている。
そういう観点から歴史の、ひいては社会の教材作りをしてみたかった。教師では、あまり解決にはならないから。
右翼左翼の論争って不毛だと思っている。
一時期興味を持って色々と調べた事があった。特に踏絵と化している南京の一件について。思ったのは、結局どちらも相手の言う事など聞いていないのだなという事。どうにも話が噛み合ってない。わざと曲解しているんじゃないかというような解釈でお互い罵り合っている。常に論点がずれている。
で、調べるのをやめた。自分なりの見解が出たこともあるが、当時の混乱した状況下で決め手となる証拠が無い事(お互いにあると言っているが)と、証拠自体あやふやだからだ。写真は基本的に証拠と成り得ないし、証言はおかしいものが多い。日記資料なども、当時は様々な所で思惑が絡み合っているためどの人もどこかしらの団体の影響力を受けている。どんな証拠であれ宣伝目的でないと信じきる事が不可能。
不毛だと思った。
タチが悪いのが、お互いに自分のことを真ん中だと思っている事。結局レッテル貼りに終始している。
もっと徹底的に話し合わせてみたい。対談でも何でもいいから主張を宣伝する場ではなくて議論する場を設けてみたいと思った。意見の近いもの同士の対談なんてなんの価値もない。多分、永久に結論は出ないのだろうけど、それでも朝まで生テレビとか、いつかやってたサンデー毎日の対談よりはマシなもの(ネットの掲示板なんて最悪に向いてない)って作れるはず。消化不良にならないような。
とまぁ、これらがやりたい事であるのは本当だが、それとは別に季刊くらいの歴史雑誌を作って、それで細々とでもいいから食べていければというのが願望としてある。ジャーナリスティックではないか。
が、それをやるにも一度出版社に入らないと。中途でもいいとは言っても一度メビウスの輪に入らねばならない。そのためにはどんな出版社でもいいから入らないといけない。
どんな出版社でも
事ここに到ると、それを生み出すエネルギーってミーハ―な憧れの面じゃなかろうか。やりたい事とは関係なく熱意を示せるってのはそういう面が必要だと思う。
そして、どうやら自分にはそれが無いような。最近やる気が、起きない。
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