インド中国半島
2002年8月14日 インドシナ半島を
インド中国半島とは呼びたくは無い。
そんな理由でシナという呼称も、ちょっと古いが三国人という呼称も許容したい。
今の若い世代がこれらの言葉を使うのはどうかと思う。そういう風に習った訳ではないのにわざわざその呼び方を使うというところに恣意的なものを感じて気分がいいものではない。
しかし、爺さん世代がこういう言葉を使うのは至極当たり前のことなのだ。叩く事は無かろう。誰にもそれを恣意的に使っているという証明は出来ないのだ。おそらく一生インドシナ半島と呼び続けるだろう。そこに何ら他意はないのだから。
ただ、歴史を勉強していると支那という言葉自体に違和感がなくなるのは事実。そして便利である事も事実ではある。チベット人という言い方が普通に定着している以上、そして彼等を中国人とは呼びたくない人がたくさんいる以上便利は便利である。誰か、いい呼称を考えてくれればいいのだが。
だからこそ、この呼び方がある種の踏絵になっている事は遺憾である。こんな呼び方程度で何がどうなるものでもないし、そもそも歴史の見方を「自虐」と「自賛」の2種類に分けるというのは大雑把に過ぎる。
司馬遼太郎もシナと言っていたのだが。
「大東亜戦争」も同じ。
なのだが実は「第2次世界大戦における太平洋戦場」は日本でも呼称が一定していない。「あの戦争」という本が出た事からも分かるが、いくつも呼称があって思想によって呼び方が違う。右から順に「大東亜戦争」「十五年戦争」「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」というところか。「第2次世界大戦」も捨てがたいし、「日米戦争」もある。
自らを中立だと思いたい中間派は「十五年戦争」をよく使うし、朝日系の人達は好んで「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ。
「太平洋戦争」と呼んだからといってアジア侵略を無視してる!なんて声は聞いた事が無い。呼称なぞどうだって良いのだ。
だから、「新しい歴史教科書」も良いと思う。そういう教科書があることは何も悪い事ではないし、むしろ無い事の方が逆に気持ち悪い。ああいう歴史観って、日本人のそれなりの割合が持っているだろうし、もっと右な教科書が出てきても良いくらいだ。その中で中道の種類も増え、バランスの取れた教科書も生まれてくるのではと考えている。
ただ、位置付けとしては何の問題も無くても教科書としては大いに問題があった。
利点としては物語性を重視して頭に入りやすくしている事、面白く読めるようにという情熱が見えること、文学史が分かりやすい事がある。
が、欠点がそれ以上に多い。「日本版のルネサンス」など借り物の表現が多いこと、面白くしようという努力は見られるがそれに失敗している事である(結局これは無理なのではないか?)が、最大の失敗は「国史」の立場を前面に出している為に世界史の記述が圧倒的に少ない事だ。世界の四大文明くらいすべて紹介しなくてはどうしようもない。
一つのテーゼとしては構わないのだが、これでは時代に逆行するしニーズにも応えられない。従って採択されない。当たり前の事である。受験に落ちる教科書なのだから。
つまり、新しい歴史教科書はそのテーゼゆえに敗北したのではなくて、その中身ゆえに敗北したと言える。
インド中国半島とは呼びたくは無い。
そんな理由でシナという呼称も、ちょっと古いが三国人という呼称も許容したい。
今の若い世代がこれらの言葉を使うのはどうかと思う。そういう風に習った訳ではないのにわざわざその呼び方を使うというところに恣意的なものを感じて気分がいいものではない。
しかし、爺さん世代がこういう言葉を使うのは至極当たり前のことなのだ。叩く事は無かろう。誰にもそれを恣意的に使っているという証明は出来ないのだ。おそらく一生インドシナ半島と呼び続けるだろう。そこに何ら他意はないのだから。
ただ、歴史を勉強していると支那という言葉自体に違和感がなくなるのは事実。そして便利である事も事実ではある。チベット人という言い方が普通に定着している以上、そして彼等を中国人とは呼びたくない人がたくさんいる以上便利は便利である。誰か、いい呼称を考えてくれればいいのだが。
だからこそ、この呼び方がある種の踏絵になっている事は遺憾である。こんな呼び方程度で何がどうなるものでもないし、そもそも歴史の見方を「自虐」と「自賛」の2種類に分けるというのは大雑把に過ぎる。
司馬遼太郎もシナと言っていたのだが。
「大東亜戦争」も同じ。
なのだが実は「第2次世界大戦における太平洋戦場」は日本でも呼称が一定していない。「あの戦争」という本が出た事からも分かるが、いくつも呼称があって思想によって呼び方が違う。右から順に「大東亜戦争」「十五年戦争」「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」というところか。「第2次世界大戦」も捨てがたいし、「日米戦争」もある。
自らを中立だと思いたい中間派は「十五年戦争」をよく使うし、朝日系の人達は好んで「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ。
「太平洋戦争」と呼んだからといってアジア侵略を無視してる!なんて声は聞いた事が無い。呼称なぞどうだって良いのだ。
だから、「新しい歴史教科書」も良いと思う。そういう教科書があることは何も悪い事ではないし、むしろ無い事の方が逆に気持ち悪い。ああいう歴史観って、日本人のそれなりの割合が持っているだろうし、もっと右な教科書が出てきても良いくらいだ。その中で中道の種類も増え、バランスの取れた教科書も生まれてくるのではと考えている。
ただ、位置付けとしては何の問題も無くても教科書としては大いに問題があった。
利点としては物語性を重視して頭に入りやすくしている事、面白く読めるようにという情熱が見えること、文学史が分かりやすい事がある。
が、欠点がそれ以上に多い。「日本版のルネサンス」など借り物の表現が多いこと、面白くしようという努力は見られるがそれに失敗している事である(結局これは無理なのではないか?)が、最大の失敗は「国史」の立場を前面に出している為に世界史の記述が圧倒的に少ない事だ。世界の四大文明くらいすべて紹介しなくてはどうしようもない。
一つのテーゼとしては構わないのだが、これでは時代に逆行するしニーズにも応えられない。従って採択されない。当たり前の事である。受験に落ちる教科書なのだから。
つまり、新しい歴史教科書はそのテーゼゆえに敗北したのではなくて、その中身ゆえに敗北したと言える。
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