喧嘩を売っているといわれようとも
2002年8月9日 「これは俺の意見なんだから」
ってのは単に自分の殻に閉じこもっているだけ。
意見を出し合うと、必ずと言っていいほど聞くのがこの言葉。自分の意見がそんなに大事なんだろうか。
相手と自分が全く同じ意見だなんて事は当然、ありえない。意見が違うという事は何を言おうとも「それは、違う。おかしい」と心の中では思ってるはずである。意見が違うのだから。
そこをすり合わせていくのが人と人との話し合いというものだろう。自分の意見を考え直し、相手に伝わるように、相手の価値観の中に染みこむ様に、納得されるように話していく過程で相手の価値観、意見が自分の中に吸収されてより理解が深め合えるというもの。議論というものの存在価値とは相手を打ち負かす事ではなくそういうところにある筈だ。
勿論、「そんな考えをもつ奴はバカだ」や、「その考えを持つこと自体が間違っている」なんてのは問題外である。
が、「これは個人の意見だから」という免罪符がまかり通りすぎてはいやしないか。それを他人に聞こえるところで発した以上その免罪符は効力を失うはずである。
思う分には勝手である。同様に、それに反対の意見を思う分にも勝手なはずではないのか。極端な話、その意見を聞いて嘲笑するのも勝手なはずであるから、やはり「個人の勝手な意見だから」は免罪符にはなりえない。
コミュニケーションを拒否して「自分の意見」を守ることは実は相当に失礼な事なのではないのだろうか。
〇×教はこんなに素晴らしいんだ、との台詞に対して「信仰してはならない、」だとか「信仰する奴はバカだ。」などと言ってはならないが、「その教義にはこれこれこういう悪いところがあり、こんな理由でその教義は間違っていると思う」、という事は何も問題は無い。
宗教がらみだと微妙な話になりかねないが、個々人の意見なんて結局皆軽度の宗教である。
ってのは単に自分の殻に閉じこもっているだけ。
意見を出し合うと、必ずと言っていいほど聞くのがこの言葉。自分の意見がそんなに大事なんだろうか。
相手と自分が全く同じ意見だなんて事は当然、ありえない。意見が違うという事は何を言おうとも「それは、違う。おかしい」と心の中では思ってるはずである。意見が違うのだから。
そこをすり合わせていくのが人と人との話し合いというものだろう。自分の意見を考え直し、相手に伝わるように、相手の価値観の中に染みこむ様に、納得されるように話していく過程で相手の価値観、意見が自分の中に吸収されてより理解が深め合えるというもの。議論というものの存在価値とは相手を打ち負かす事ではなくそういうところにある筈だ。
勿論、「そんな考えをもつ奴はバカだ」や、「その考えを持つこと自体が間違っている」なんてのは問題外である。
が、「これは個人の意見だから」という免罪符がまかり通りすぎてはいやしないか。それを他人に聞こえるところで発した以上その免罪符は効力を失うはずである。
思う分には勝手である。同様に、それに反対の意見を思う分にも勝手なはずではないのか。極端な話、その意見を聞いて嘲笑するのも勝手なはずであるから、やはり「個人の勝手な意見だから」は免罪符にはなりえない。
コミュニケーションを拒否して「自分の意見」を守ることは実は相当に失礼な事なのではないのだろうか。
〇×教はこんなに素晴らしいんだ、との台詞に対して「信仰してはならない、」だとか「信仰する奴はバカだ。」などと言ってはならないが、「その教義にはこれこれこういう悪いところがあり、こんな理由でその教義は間違っていると思う」、という事は何も問題は無い。
宗教がらみだと微妙な話になりかねないが、個々人の意見なんて結局皆軽度の宗教である。
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