我がゲーム論

2002年8月2日
 とりあえず、転載の許可は取った。昨日の日記を踏まえた上で眠くなるまで書いていこうと思う。

 RPGが過渡期に差し掛かっているのは確かだろう。オンラインゲームもその中の試みの一つである事は間違いない。個人的にはネットゲームは嫌いだが。なんで自分の憩いの場に仮想の人間関係を持ち込まなければならない?あれを面白いと感じる人は現実の人間関係に疲れ果てた人か、そもそも人間関係自体を持ってない人だろう。(FFオンラインの、あのCMの醜悪な事!「一人じゃ、ないもん」げろげろ。)

 ただ、だからといってRPGそのものの衰退期だとは思わない。

 わざわざ一行あけておいたが、ストーリー的に限界がきてるというのは全くもって当てはまらない。というより物語というもの自体に限界は無いのだ。マンネリ化してきているとしたらそれは作り手の問題とプレイヤーの趣向の問題であってジャンル自体の問題ではない。
 
 確かにゲームという媒体には「楽しめなければならない」という大前提があるが、何かを生み出すに当たってこういうある種の「縛り」は悪い方向へとは向かわない。むしろ、何もかも自由にやらせようとすると逆に良いものは出来ないものだ。

 斬新でなくても構わない。良質でありさえすれば面白いものにはなる。

 ドラクエは発売当時ですら既にありがちなお話だった。何百年も前から使い古された冒険物語。それが何故ここまで好評を博したのか。

 理由は二つ考えられる。

 一つは、ゲームとはシステムであるという事。
 一つは、ストーリーとはその世界に入り込むためのツールの一つに過ぎないという事。

 根底では繋がっているのだが、
 まず前者は言わずもがなだろう。ポケモンのストーリーに、誰が感動したか。本当に爆発的にヒットしたゲームでは、絶対に物語は主役ではありえない。いくら良質ではあっても、それが前面に押し出てはゲームの特性を生かしたとは言えないからだ(サウンドノベルは例外)。ちなみに、自分史上NO.1ゲーム「タクティクスオウガ」は凡百の書物など問題にならないほど重厚な物語を示してくれたが、それも完成されたシステムあればこそ、民族紛争という「出来事を体験」できたからこそである。

 後者はドラクエの町の台詞「〜の町へようこそ」という言葉に集約されている。
 これを単なる記号に過ぎない、と罵るのは不見識である。何故なら、どうしてその台詞が出てきたのか、そこを想像(創造でも可)する力に欠けているからだ。
 どうしてそのような台詞が生まれえたのか、「自分」との間にどんなやり取りがあったのか。何も頭で考えろというのではない。ドラクエの絶妙なところは様々な場面でそのような情景を「感じれる」ところなのだ。そこが、ゲームのゲームたる所以である。FFには、これがない。

 友の文中にあった、「ゲームの都合で街があるみたいだった」というのとは根本的にここで認識が違う。全てがお膳立てされてはそれは「感じている」のではなく「見せられている」事になってしまう。言うならば押し付けられているのだ。

 ドラクエでは「生きている」と感じ、FFでは「演技をしている」を感じるのはここらへんに原因がありそうだ。

 本とも映画とも違う、ゲームの最大の特性とは「自らの手で何かをする」という事。それが無くてはつまらない。FFの街には一通りの受け止め方しかないが、ドラクエの街、少なくとも自分の中では自分なりの「ラダトーム」が確かにある。(それは、事細かに情景を浮かべる、というのとは違って)

 結局RPGではなく、FFと、それに類する手法をとっているRPGの衰退、なんじゃなかろうか。

 そこからシーキングタイムの是非に展開するが・・・また今度。

 ちなみにここでのFF,DQはそういった特色を持つRPG群の代名詞的な扱いです。

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