赤目
2002年7月14日 佐藤賢一の作品。
原題は「赤目〜ジャックリーの乱〜」で文庫化する際に当たって「赤目のジャック」と改題されたのだが、個人的には原題の方が良い。この作品は、ジャックリーの乱を描いたものだが、不満を募らせた、絶望に満ちた農民達が赤目(邪眼)を持つ一人の男に魅せられる事によって貴族に対する狂気の大虐殺に走っていく話である。
歴史上のジャックというのは存在が疑問視されているが、その扇動者としてのジャックに血肉を与えられたのが、「赤目のジャック」である。
が、彼は断じてこの話の主役ではない。それどころか、(この話の中でさえ)反乱の主役ではないと思うのだ。それは何故か。
彼はただの導火線に過ぎず、あくまでもその大虐殺は農民が、ひいては人間が欲していた事だからである。ジャックというのは人間の暗黒面と集団心理を擬人化した存在に過ぎず、実際に作中でも彼に「役割」はあるが「個性」は無いといっても良い。(意外に情けない男であると言う肉付けも見られるが、ジャックがそういう男であったという事と、「赤目のジャック」の誕生とは切り離されて考えられるべきではないだろうか)そういう意味でも作中のジャックは現実の、歴史上のジャックと同じく農民の総体が擬人化された存在なのだろう。それがそのまま血肉を得たのだ。
であるから、「赤目のジャック」という個人名にちなんだ題はつけるべきでなかったと思うのだ。
この作品は本当におぞましい。エロ小説どころかSM小説と言ってしまっても良いくらいである。農民の狂いきった姿に、家畜のように扱われる貴族、騎士、その子女。(イメージとしては「ベルセルク」のそういうシーンや「触」のシーンが延々と続くかのような)
その吐きたくなるような描写の連続にもかかわらず、それだけだったという印象は残さない。
主人公のフレデリは冷たい男である。表面は優しいが、上っ面のものであり最後の最後で自分のために女を裏切る。彼が最後に手に入れた本当の優しさとは、自分の事だけを考えた優しさを捨て、暴力と罵倒の上に成り立った優しさであった。自分のことだけ考える善良さではなく、壊す事に基づいた思いやり。
それが答えではない、という事が作者の意図であるとすると穿ち過ぎであろうか。ジャックという触媒を通して心の闇を暴き、それによるフレデリの見出した読者に共感を与えるとは思えない結論で、その闇に基づいたそれぞれの結論が何かを問い掛けているのではなかろうか。
フレデリの結論もまた、その意味では触媒に過ぎない。
作者は結論を押し付けるような作りにはしていない。
事実、この作品は異端であり、他の作品にまでフレデリの結論は波及しているわけではない。
そう言った意味で、「楽しくはないが面白い本」であった。
原題は「赤目〜ジャックリーの乱〜」で文庫化する際に当たって「赤目のジャック」と改題されたのだが、個人的には原題の方が良い。この作品は、ジャックリーの乱を描いたものだが、不満を募らせた、絶望に満ちた農民達が赤目(邪眼)を持つ一人の男に魅せられる事によって貴族に対する狂気の大虐殺に走っていく話である。
歴史上のジャックというのは存在が疑問視されているが、その扇動者としてのジャックに血肉を与えられたのが、「赤目のジャック」である。
が、彼は断じてこの話の主役ではない。それどころか、(この話の中でさえ)反乱の主役ではないと思うのだ。それは何故か。
彼はただの導火線に過ぎず、あくまでもその大虐殺は農民が、ひいては人間が欲していた事だからである。ジャックというのは人間の暗黒面と集団心理を擬人化した存在に過ぎず、実際に作中でも彼に「役割」はあるが「個性」は無いといっても良い。(意外に情けない男であると言う肉付けも見られるが、ジャックがそういう男であったという事と、「赤目のジャック」の誕生とは切り離されて考えられるべきではないだろうか)そういう意味でも作中のジャックは現実の、歴史上のジャックと同じく農民の総体が擬人化された存在なのだろう。それがそのまま血肉を得たのだ。
であるから、「赤目のジャック」という個人名にちなんだ題はつけるべきでなかったと思うのだ。
この作品は本当におぞましい。エロ小説どころかSM小説と言ってしまっても良いくらいである。農民の狂いきった姿に、家畜のように扱われる貴族、騎士、その子女。(イメージとしては「ベルセルク」のそういうシーンや「触」のシーンが延々と続くかのような)
その吐きたくなるような描写の連続にもかかわらず、それだけだったという印象は残さない。
主人公のフレデリは冷たい男である。表面は優しいが、上っ面のものであり最後の最後で自分のために女を裏切る。彼が最後に手に入れた本当の優しさとは、自分の事だけを考えた優しさを捨て、暴力と罵倒の上に成り立った優しさであった。自分のことだけ考える善良さではなく、壊す事に基づいた思いやり。
それが答えではない、という事が作者の意図であるとすると穿ち過ぎであろうか。ジャックという触媒を通して心の闇を暴き、それによるフレデリの見出した読者に共感を与えるとは思えない結論で、その闇に基づいたそれぞれの結論が何かを問い掛けているのではなかろうか。
フレデリの結論もまた、その意味では触媒に過ぎない。
作者は結論を押し付けるような作りにはしていない。
事実、この作品は異端であり、他の作品にまでフレデリの結論は波及しているわけではない。
そう言った意味で、「楽しくはないが面白い本」であった。
コメント