最悪だね

2004年7月11日
 とりあえず読売の不買運動から始めようか。

 パソコンがないため、更新どころではなくなってきました。仕事も忙しい。

 あと数ヶ月以内にパソコンが買えなければ閉鎖。

いろいろ

2004年5月9日
 ・はじめて一人暮らしをしているのだが、どうも野菜ばかり食べているような気がする。近くにはコンビニも食べ物屋も無いために体を悪くするような食生活にもならず。

 ・パソコンを買う金がないので、不便といえば不便なのだが、これはこれで良いような気もする。パソコンをしてると意味も無く疲れてしまうので。でも、調べ物をしたいときには便利なんだよな。

 ・ロッテが弱い。弱いのだが、今年はどうにかなると思っている。これだけ落ち込んでいたら、例年だともっと取り返しのつかない状態に陥っているものなのだが、今はそうでもない。とりあえずスンヨプがこれからどうなるのか、見ものだ。

前提

2004年5月4日
 転職の多い流動的な社会というのは、しっかりした大学教育が前提になってなければならない。

 これまでは、いくら大学がただの遊び場と化し、人生の夏休みと位置付けられていても、それほどの問題は発生しなかった。何故ならば長期雇用を前提にして、時間をかけて研修という形で教育を施してきたから。高校までの教育がしっかりしていたという点と、それによって大学側が学生を選抜していたという点も大きい。

 しかし、プチアメリカ流の流動化社会になりつつある昨今では、企業はどんどん育成に金をかけられなくなる。金をかけるのが馬鹿らしくなっていく。では、どこで育成をすれば、されれば良いのか。
 自分に自分ですれば良い!と自己責任を声高に叫ぶのは容易いが、それは個々人の問題であって全体の数と質が減ってしまうのは否めないし、先人というか、培われてきたノウハウを活かせないのは非効率的でもある。
 が、そんな事情に構ってはいられない企業は、「既にして優秀な人材」を、必死でかき集めようとする。就職活動の前倒し。つまり、大学生活が実質3年間になってしまうという事。教育に充てられるべき時間を自分達で短くしていく悪循環。

 それに加えて、大学全入の時代と、初等中等教育の不安。大学全入も、全卒も悪くは無いが、全入でしかも全卒というのはいかにも問題がある。かと言って大学という場で、自分で自分に投資をするというのは難しい。初等教育から含めて、自己負担で教育にお金をかけられる人というのは、一定以上の富裕層に他ならない。大学に入っただけでは飽き足らず、そこから更に自己投資をできるほどの豊かさが無ければ流動化社会なんて言っても参加すら出来ないとそういう事か。

 根幹を変えずに、上っ面だけ見栄えが良いものに変えても、すぐにぽしゃるんじゃ無かろうか。

 経団連の発表によれば、平均在職年数が長い企業ほど利益を生んでいるらしい。何か示唆的ではあると思うのだが。

久しぶり

2004年5月3日
 この一ヶ月間、研修のために日本各地を飛び回っていた。飛び回っていたというほどではないが、自分としては飛び回っていた。

 今は初の一人暮らしの最中。そこまでアップアップではないのだが、パソコンがない。というか金が無いためこのページをどうするか検討中。二週に一回くらいの頻度でも、とにかく定期的に更新できれば良いのだが。
 ただ、パソコンなんぞ持っていると、逆に気が休まらないように思えてならないから、欲しいと言っても熟慮する必要があるやもしれない。

 3月は本当にあっという間だったのに、4月の長い事長い事。

 あ〜、旅行がしたい。
 ロッテが強い。手応えがある、というのはこういう事を言うのだろうとやっと分かった。うーむ、強い。心に充実感が広がる。

 しかし、明日からついに就職。年貢の納め時。未知の世界へと入っていくわけだ。

 そのため、明日から2週間ホテルに泊り込みで研修。次の更新はいつになることやら。

対策

2004年3月26日
そういう目的で始めたのだから当然なのだが、どうもシュウカツのためにここにアクセスしてくる人が多いらしい。しかし、もうすぐ就職。看板に偽りありなため、たまにはシュウカツに関係のあることでも書いてみようかと思う。

 エントリーシートの書き方、コツのようなもの。

 ある意味、シュウカツはエントリーシート作成が最大の山場とも言えよう。エントリーシートというか、自分で想定できる質問とそれに対する答えだな。自己PRも含めて。これを何としても完成させる。どれくらいの完成度かというと、親しい友達はおろか、それほど親しくない友達に見せても恥ずかしくない、むしろ見せたくなるほどの出来に仕上げる。仕上げるって簡単に言うが、これが一番難しい訳だが。

 あとは、それを一旦覚えきった後に、再びそれを忘れる。完全に覚えていると、暗記になってしまって棒読みになってしまうので、全て忘れる。それを繰り返すと、自分の言葉として消化されるから、どんな時でもうろたえずに答えられるようになる。と思う。

 で、想定できる質問はある程度数多く想定しておく。その質問に対する答えの中には、なるべく「自己をPRする文章」をおり込んでおく事。これは、「だから〜の力がある」といった直接的表現でも良いし、当意即妙な気の効いた答えによるものでもよい。ま、後者は端的に言えば面白いものを、ということか。

 面接の時には出来るだけ最大限、質問に対してちぐはぐにならない程度までは強引に自分の考えていた文章につなげていく。面接って奴は、素直に質問に答えてもたいして受けは良くない(それはそれでおかしい話なのだが)。ここはもう、自分次第ではあるが。
 
 エントリーシートの作成自体は、自分の中にgoogleを導入したようなつもりで。なるべく、あらゆる分野において。学校、サークル、バイト、趣味等等自分の関連した事において自分のPRになるようなエピソードをシュウカツ中は常に思い出そうとし続ける。些細な事でも良いし、それこそサークル全体でやった事を、自分の提案で行った事にしてしまってもよいだろう。とにかく、「〜ではどうだったか」と聞かれて何かしら答えられるようにしておく。

 エピソード先にありきである必要は無い。自分の示したい能力に応じて振り返ったり、話をちょっと作っていく感じでよいと思う。

 番外編としては、面接の時に感想を求めるのもありか。これはもうダメだ、と思ったり、はじめから興味関心の外にある会社の面接だったら、最後に「質問はありませんか」と聞かれた時に、自分の面接の印象を聞いてみたりする。意外とこれが役に立つ。そこに受かる確率は低くなると思うが・・・

 そうそう、最後の質問は、聞くべき内容はなるべく考えておいたほうがよいかも。どんな会社でもつかえる質問ってのは考えればあるとは思う。

 ぱっと思いつく限り書いてみた。

いざさらば

2004年3月25日
 1年遅れだったので、あまり知り合いもいないかと思っていたら、意外といた。進路決定率のあの高さには欺瞞があるとしみじみ思う。

 卒業式は、まさしく式典といった感じ。5年間もいた大学。もっと何か、こみ上げてくる物があるかと思ったのだが、その場その場でやるべき事が多く、それほど感傷に浸りはしなかった。特に大学という場所は、友人があちこちに分散していて、それぞれに顔を出しているとなかなか時間がかかってしまう事と、全てが終わった後に、むしろこれがメインであろうという飲み会が控えている事。そして、飲み会の後に感傷に浸ったりはしないだろうという理由が考えられるか。

 あとで、じっくりゆっくり感傷に浸るのかもしれない。

 思った。
 女性の袴が割りと好きだから悲しみの感情よりもむしろ嬉しさのほうが勝っていたりして。

 そんな馬鹿な。

私的公私

2004年3月24日
公的な部分と私的な部分の区別というのはとても大切。

 言うまでもなく、コネや血縁で物事を決める事は望ましくない。それがあるとしても、その人と人との結びつきの力が必要な時だけであり、その力はまたつまり公的な実力の一種ではあると思う。問題なのは、公的に、対外的にもその事によるメリットが全く無いのにコネや血縁で物事を決める、つまり私的な要因で物事を決める事である。非生産的な事に力を使うというだけでなく、周囲の人物のやる気を著しく削ぎ、自らの存在意義と周囲に疑いを持つことに繋がりかねない。

 公的な部分以外で他人を判断するという事に関しても同じ事がいえる。スポーツ選手は外でどんなに遊びほうけていても、結果さえ出せばよい。営業員が不倫に手を染めようが、成績さえ出して問題を起こさなければクビになど出来ない。
 これがもしも守られなかったら、人格的な判断で公的な部分まで評価されるようになってしまったならばとんでもないことになる。どんなに頑張っても気に入られないから左遷、ではたまった物ではなかろう(ままあることなのだろうが)。

 この事は、公的な事を自分のこと、私的なことを家族の事と置き換えても通じるだろう。自分のことの評価は自分の事だけで判断されること。これがしっかりと確立されていないと、家柄のせい、環境のせいで判断される事になる。それでは個人の評価が個人以外の部分で決まってしまう、連座制にほかならない。

 例外的に、政治家は自らに私的な部分は存在しないと言ってよい。個人的には仕事さえしてくれれば女を囲おうが変な性癖があろうと全く関係ないと思っているが。

 週刊文春が出版差し止めで提訴だなんだと問題になっている。
 文春の考える公私の別を聞いてみたい。知る権利とプライバシーの権利をはかりにかけて、知る権利を表現の自由にリンクさせているわけだが、この論法は非常に危険だと思う。ジャーナリズムの公私についての考え方を明確にした上で表現の自由を訴えないと、メディアや世論の盛り上がり次第では「敵対分子」や「自由の敵」に対する「報道」ではない、「攻撃」が正当化されかねない。つまり、いくら本人とは関係の無いところの話であろうと、メディアがそれを重要だといったら、知りたいと言い出したら中国人だからという理由だけで。イスラム教徒というだけで。自分どころかその家族の私的な部分を暴露される事になりはしまいか。表現の自由を侵されるのは戦前の悪夢だが、被差別民や被差別国民に対するメディアと世論によるリンチもまた悪夢であろう。 

 誰が、どこで区切るのか。

 政治家の家族だったら良いとするならば、例えば新潮系なら攻撃するであろう朝日系や学会系、さらには中国系の要人でも、その家族の事私的なことを報道する事もOKになってしまうのか。

 少なくとも、いくら公人であろうと本人ではない家族の、それも私的な部分を暴き出すのはどうかと思う。公的な部分であるかないかだけでは、政治家に限っては仕方ないと思う。プライベートなスキャンダルもありだろう。本人か家族かも、政治家の家族がどんな仕事をしているかなどは報道の自由を認めるべきであろう。しかし、この両方が重なった場合。というか、政治家でない人物のプライベートを暴き立てる事はもはやプライバシーの侵害を重く見るべきではなかろうか。

 そうでない限り、ゆくゆくはメディアの敵全てに対する「攻撃」が黙認される事になってしまうように思えてならない。何より、そういった出版社全体が、公と私の別を区別しない、私的なコネや血縁関係があからさまに存在し、明確な基準の無い好き嫌いで社員や人物を判断していると思われてしまうのではないかな。

学生最後の帰国

2004年3月22日
 中国では搭乗予定の飛行機が空港に突っ込み
 トルコでは9・11のテロに加えて滞在していたイスタンブールで自爆テロが起こり
 イタリアではアルカイダから犯行予告があり、
 インドネシアに行こうとしたらジャカルタでのテロで中止になり
 カンボジアでは同時期に日本人レイプ事件があり
 スペイン滞在時にはフセインが捕まり、(帰国後数ヶ月で頻繁に使っていた駅にテロがあり)

 そして今度は陳水偏が撃たれてた。

 連戦の選挙無効デモも「見物」してきたが、正直言って報道されているほどの緊迫感は感じなかった。朝だったからかもしれないが、10時でも警官隊は半分ほど寝ていたし、屋台で焼きもろこしも売っていた。オジサン主体の、中規模なライブ会場といったところか。すぐとなりの公園の、100メートルほど離れた地点では平和そうに太極拳をしている人もいたし。
 報道だと、あたかも台北が混乱の極みにあるかのような印象は受けるけれども。

決めるのに困るもの

2004年3月16日
 食べたい物が無い時のランチと、読みたいものが無い時の暇つぶし本。

 最近、もやもやが残る本が読みたくない。よく読んでいたクライムノベルとか、現代ミステリは、ちょっと。前々からその傾向はあったのだが、『暗夜行路』を読んでからダメになってしまった。
 かといって、心引かれる歴史小説にも出会えず。出会えたとしても、ハードカバーだったり。
 爽快になれる本という事で、ライトノベルに回帰しようかと思ったが、正直手に取る気にはなれなかった。
 中公文庫の、『デルフィニア戦記』が気になってはいるのだが、正直なところ、全18巻に手を出すのは勇気がいる。そういう長編に居身もあるのだが。

 何故そんな事言っているかというと。明日から台湾に行って来るため。

 4泊5日で台北のみ。これがいよいよ最後の旅行。13段目の階段。出来る事なら帰ってきたくないものだが。

 ちなみに、これから引越しがあり、それが終わるとパソコンが手元になくなってしまうので更新頻度が激減するのは必至。閉鎖も考えている。パソコン買う金くらい貯めて置けよとよく言われるが、こんなに旅行に行ってて貯まる筈もなく。
 本当にどうしたものだろう・・・

呼び方の階級

2004年3月15日
 高校の時の友達と会って話をしてきた。

 もう5年も前の話という事で、微笑ましい話も多かったのだが、『いま明らかになる衝撃の事実!』的な話が多かったのにかなり面食らった。特に女子同士の話。
 当時の印象では、割と地味な人が多かったという風に記憶していたのだが、この日聞いた話ではかなりの泥仕合。いがみ合い足の引っ張り合い泣く泣かす・・・

 恐ろしい。

 何故自分が気づかなかったのか不思議になるくらい色々な話を聞かされ、逆に安心。当時気づかなくて良かったなと。逆に気づかなくて失敗だった話もあったが。鈍すぎるのだろうか。

 「女子」という単語で思い出すのが、クラスには、大概の場合「ハデ派」と「中間派」と「地味派」がいるということ。男もあるが、それよりももっと顕著だった。で、派閥間交流において重要になってくるというか、面白く思っていたのが呼び方の問題。端的に言えば、「強引にあだ名を呼ぶ」事。

 一段階離れている場合、ハデ派⇔中間派 と中間派⇔地味派 の場合は大して親しくなくてもあだ名(もしくは愛称)で呼ぶ事が多い。というか、あだ名で呼ぶ事がもはや一種の礼儀になっている。女の子の間では、フレンドリーである事が社会の中での礼儀作法となっているのではないかと踏んでいるのだが。
 ところが、二段階離れている場合だと、これが「〜さん」とさん付けになる。興味深い。彼女等にとって、これくらい離れているともはや同じ世界の住人ではないのだなと(中高生を考える時に、この「世界」とか「階級」というのは一つのポイントになってくると思う。いつか、それについても書いてみたいが)。
 で、同じ派閥の中だと、あだ名で呼び合うことも多いのだが、意外と呼び捨てになる確率が高い。これはつまり、一階級離れている人達と差別化するために、これくらいの事を言っても怒らない関係なんだよとアピールするために使われていると思う。この場合、二人称も「オマエ」とかになったりする。まぁ、この使い方はハデ派によく見られる傾向ではあるのだが。

 あぁ、男でよかった。

 そんな事観察する前に、もっと大事な事に敏感になれという気もするが。自分が唯一モテていた時期に、自分で全く気づいていなかったんだと。そんな、後で言われても・・・

反応して欲しくない

2004年3月14日
 分かる人には分かると思うが、「自分の人生だから、自分が楽しければ良い。自分の好きにする」という考え方が、この上なく嫌いである。「自分の人生は確かに自分の物なのだが、同時に自分だけの物ではない。」とは我が友の言である。

 子供を産む、という事は非常に重大な意味がある。子供を産むのは親の勝手なのだから、親は出来るだけの事をするべきであるし、しなければならないのではなかろうか。
 これを子の視点から見るとまた話は違ってくる。産んでくれたことに対する感謝の念というのは、持っていてしかるべきである。けれども、その感謝の念を期待して産むというのは論外であろう。恩着せがましく「産んでやった」と思ったとて、そう思うかどうかは実のところ分からないのだから。

 出来るだけの事をする気も無いのに子供を産むという事は、ペットを飼うことと同じなのではなかろうか。「子供のために出来るだけの事をする=自分の持っているものをいくらか失ってでも」ということ。つまり、リスクを考えずに自分にとって都合のいいものだけを手に入れようとする事が、つまり「自分が楽しければ良い」という事。ペットを飼うような事だという事だ。

 この場合の、「出来る事」。その中で、多くの割合を占めるのが「時間を割くこと」ではなかろうか。
 
 結論を言うならば、子供を産むからには両親のどちらかは仕事をするべきではないと思う。勿論、そうしなければ家計が成り立たないなどのやむをえない理由がある時は別である。ただ、そうであるが故に、そこまでしなくとも大丈夫な時は出来る事を、出来るだけするべきではないだろうか。「出来る事」をしないという事が既に、「自分は何も失いたくない、けれども子供は欲しい。」というエゴの産物であろう。何かを得るならばリスクは不可避であるのだから。

 無論、共働きの親の子供が、皆良く育たない訳ではない。きちんと時間をかけている親の子供が必ず良いというわけではない。しかしそれは確率の問題であって、より良い選択肢を選ぶという観点から見たらどうなのか。ベストを尽くした結果が悪くなったとしても、それは偶々であるが、ベストを尽くさずに良い結果が出たとしても、それもまた偶々である。
 人間、往々にして自分の経験を一般化しがちである。自分が共働きの家で普通に育ったのだから、そうしても大丈夫。という考え方には実は何の裏づけも無い。偶々、ベストを尽くさない低い方の確率を(とは言っても極端に低い訳ではなかろうが)体験したからといって、次も上手くいくとは限らない。その意味でも、出来るだけのことはするべきではなかろうか。

 「自分は何も失わずにいるけれども良い状態を維持し続けて自分を喜ばせてくれる存在」なんて仮想現実の中にしか存在しない。
 自分が楽しくなければその方が子供にとっても嫌だろう、なんて言い草は露骨で根拠薄弱な自己正当化にすぎない。自分が良い状態にいるために、自分以外の人間が泥を被っている事が世の中ほとんどである。
 
 この場合の「最善を尽くす人」は、何も女性でなくても構わないとは思う。別に、男性が家庭にいて女性が働きに出ても、良い。そもそも、仕事をやりたがる女性の気持ちがよく分からない。炊飯も洗濯も全自動になった昨今、仕事としての専業主婦は悪くない。これを嫌がるのなら、ほんの数十年前などはどうなのだろう。

 ともかく、覚悟の無い人が多すぎる。熟慮をした結果、家計や家族の事、自分の事などを総合的に判断した結果として仕事を続けるなら続けると、ようやく決めるような事だと思うのだが、何のためらいも無く、仕事を続けると言い切れる神経が分からない。結局のところ、「自分が人生を楽しめればよい」という考え方と、「子供は自分の人生を楽しくしてくれる」という認識のみが存在するのではなかろうか。
 そりゃ、少年犯罪も増えるわ。

ミスター

2004年3月10日
長嶋茂雄氏、脳卒中。この話題が連日新聞をにぎわせている。

 一個人として勿論、良くなって欲しい。自分とは直接縁の無い人ではあるが、間接的に関わってなくも無いと言える人なので、それは普通にそう思う。

 ただ、「程ほどに」良くなって欲しい。
 正直、この人に野球界を引っ掻き回されるのは少々ウンザリしている。「ミスタージャイアンツ」は全く持ってその通りであるが、この人が「ミスタープロ野球」だなんて思っている非巨人ファンは一体どれ位いるのだろうか。特に、長嶋以後の世代では。せいぜい、「ミスターセ・リーグ」にしておいて欲しい。

 長嶋茂雄という一個人に魅力を感じた事は正直なところ、無い。昔巨人ファンだった時も、分からなかった。人気があるという事は知っているが、何故人気があるのかという事は分からない。理解に「苦しむ」というのが本音である。決して理解しようとする気がないわけではないのだが。

 「オーラがある」とよく言う。長嶋に限らず、芸能人なんかでも使われる言葉である。

 意味が分からない。

 テレビで何度も祭り上げているからそう錯覚するだけではないのか。単に、宣伝や演出の一種であろう。売り出す側のそういった思惑を真に受けて、そう言って騒いでいる人を見ると、滑稽に見えて仕方が無い。
まぁ、長嶋は昔はそういった雰囲気があったのかもしれないが。

 ただ、もしも「オーラ」なるものが存在したとして、それがたかが虚業についている連中にある訳が無い。もしもそんな物があるとしたら、一流の調理師、一流の農家、そういった人々にこそそれが見えてしかるべきだろう。まかり間違っても芸が無い芸能人にそんな物はない。

まとめ

2004年3月8日
 中国3回(香港1回)
 台湾1回(予定)
 タイ2回
 カンボジア1回
 トルコ2回
 イタリア1回
 スペイン1回

 この大学生活で訪れた国を振り返ってみた。あまり外に出ない人から見れば多いかもしれないし、行っている人から見れば大して多くは無い。そんな回数だろう。更に、都市を書き出してみたい。
 
 中国;北京、敦煌、西安、重慶、武漢、上海、蘇州、洛陽、開封、南    京、香港
 タイ;バンコク、プーケット、アユタヤ、スコータイ、チェンマイ、    パタヤー
 カンボジア;シェムリアップ
 トルコ;イスタンブール、ギョレメ、セルチュク、パムッカレ、アン     カラ
 イタリア;ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ローマ
 スペイン;バルセロナ、グラナダ、コルドバ、セビリャ、トレド、セ      ゴビア、マドリッド

 こうしてみると、なかなか感慨深い物がある。それぞれの都市に思い出があり、街の様子、全体図や食事をしたところなどが脳裏に甦る。行ってよかったなとつくづく思えるのが非常に良い。

 中国は、一番回数が多い。が、中国人が好きかと言うとむしろ嫌いになった。中国は好きでも中国人は嫌いというか。埃っぽく、スモッグばかりで晴れない。連中の足臭い。ただ、色んな意味で「大きさ」を感じる国である。底知れない。
 タイは、人がニコニコと気持ちの良い事が多い国だった。食事も問題なく食べられたというのが大きい。物価も手ごろで、日本人が多いのも良く分かる。ただ単に道を歩き、観光してるだけで、一番その国の人と触れ合えるのがこの国かもしれない。問題は、食べられてもなんでも下痢か。
 カンボジアは、滞在は短かったが鮮烈な印象を残した国。アンコール・ワットは今現在自分の見た中では一番の遺跡。人々には、逞しさと愛嬌と、恐ろしさとを同時に感じた。一日の密度が最も高かった国かもしれない。
 トルコは、一番良かった。あらゆる場面で風景が素晴らしく、食事もたまらないほど美味しい。胡散臭くも愛嬌たっぷりで面白い人々も実に良かった。何度でも行きたくなる国。雑然と美しい国。心地よい国であった。
 イタリアは、どうしても物価が高いという印象が強い。食事も、金がないせいか期待したほどではなかった。都会なので人もちょっと冷たい。しかし、美術関係が充実し、遺跡関係に目がない自分としては満足できる遺跡がてんこもり。国を挙げてディズニーランドを経営している印象。
 スペインは、イタリアよりは美味しく料理を食べられた。まず思い出すのがセゴビアの子豚の丸焼きという自分もどうかと思うが。トレドを始めとして、自然と街並みの一体感が頭にこびりついて離れない。イタリアよりは中世の気分が強く味わえた。しかし、この国は赤が好きだ。

 まだまだ行きたい国は沢山ある。
 エジプトと、メキシコのピラミッドは絶対に見る。
 エジプトは、どうしても治安のイメージが悪い。その悪さが振り払えないので困っている。ツアーよりも、個人の方が安全な気すらする。メキシコのほうが、意外と見ごたえがある気もするし、ピラミッドが危険な為登れなくなるかもしれないと聞いて、早めに行きたくもある。
 インドネシアのボロブドゥール仏教遺跡も見に行きたいし、これまた登れなくなるらしいペルーのマチュピチュも行っておかねば。ゼミで教わったチベットものぞいてみたいし、金が出来たら大英博物館にメトロポリタン美術館も是非とも行きたい。インドも最近興味が湧いてきたが、そうなるとハラッパーとモヘンジョ・ダロで、知っている先輩が協力隊で行っているパキスタンにも行きたい。イランにも興味があるし、将来的にはイラクにも行ってみたい。他にも・・・

 キリが無い。人生をかけてゆっくりと回るしかないのだろうな。嗚呼、社会人になりたくない。 

来るならば

2004年3月5日
折角書こうと思っていたのに、このページにアクセスできないとやる気が減退してしまう。場所を借りている身で大きなことは言えないが。

 オープン戦が始まった。
 オープン戦の結果なぞ、全く当てにならないという事は百も承知ながら、一喜一憂してしまう自分に会える季節の到来である。いや、都合の悪い事は「オープン戦だから」と封印してしまい、良い事だけそのまま信じるわけだから、「百喜一憂」くらいか。
 試合が見れるだけで十分喜んでいるという事。

 そんな最近、暗い噂をよく耳にする。
 
 8球団に削減→1リーグ制

 これが2年後を目処に計画されているとかいないとか。提唱しているのは、勿論あの人。「あいつ死んでほしい」と口にしても不謹慎にならないという希有なあの人物。

 もしその陰謀が成功したら、おそらくダイエー西武以外のパリーグの球団か、ヤクルトとパの3球団が外される事になるのだろう。我がロッテが外される可能性は高い。しかし、それはそれで構わないような気が、最近はする。

 考えてみると、外された球団だけでリーグを作っても、観客動員はそう変わらないんじゃなかろうか(セの球団ならば大打撃だろうが)。問題は、そこで新リーグを作るかどうか、という話ではあるけど。もしそうなったら作って欲しい。今更、応援するチームを変えられるとも思えない。というか、作ってもそれほど問題ないと思うのだが。

 もはや野球協約に縛られる必要はないから、30億円の加盟金も無くなる。そこで、社会人のチームを四国あたりと仙台辺りに作り、6球団にする。その上で台湾や韓国、中国あたりも混ぜれば状況はむしろ好転するのではなかろうか。危機感をもつ上に、野球協約がなくなるからフットワークも軽くなろう。

 問題は、ドラフトか。韓国や台湾の選手は外国人枠外にすれば、当面選手は足りるだろうけど。
 しかし、野球機構と関係なくなれば、とりあえず大学、社会人はドラフトにかかるまえに取り放題になるような気はする。残った球団の財力を考えれば、完全自由競争にしても、差は出なさそうではあるし。 
 既成事実さえ作れば、そう遠くない時期に「新日本シリーズ」も出来るかもしれない。

 おお、何か出来るような気がしてきた。来るなら来い、1リーグ制!
 同期の内定者の中で、お嬢様系に見えた女の子が、ガンダム好きだった事に驚きを禁じえなかった。

 このガンダムってのは、意外とファンが多い。周りにも、かなりマニアックに好きな人が多くて、その話題で盛り上がっている事が多い。自分としても嫌いではないからそういう話ならば加わる。

 ロボットモノ、宇宙モノだけど話自体はいわば植民地の独立戦争で、視点はそれを鎮圧する側。戦争の中で次々と人は死んでいき、必ずしもハッピーエンドで終わると言う訳でもなく。その人物も、目がでかいというわけでもなく(最近はそうでもないらしいが)ちょっとした渋さを演出してはいる。
 まぁ、面白そうである。話をしていると実に面白い。

 が、これが、実際に見てみると意外とつまらない。

 なんだろうか、原作それ自体を見ているよりも、その話をしている方が面白いのである。(また、紹介文やダイジェストだと非常にわくわくする。)
 不思議な話ではある。普通は、見ていて面白くて興奮したが故に話をしたくなるものなのだが、このガンダムの場合、話をするのが面白い→その話をするネタを仕入れるために原作を見る。
 もしくは話を聞いて面白そうだから見てみる→意外と面白くない→見た結果仕入れたネタを話す→これが面白いからまた次を見る
 というどちらかの流れになる事が多い。

 結局のところ、これも勝手な感想であって、「単純に面白い」と思っている人も多いだろう。が、この話をしたところ、意外と多くの賛同を得た。そういう人も多いのではないかな。

 まぁ、これでまたガンダムが一つ会話のネタになる。不思議なものではある。知らない人もあらすじくらいは抑えておくと、意外な人と会話が盛り上がるかもしれない。
 『蹴りたい背中』をとりあえず読んでみた。
 何かの評で、恋愛衝動が〜と書いてあったのを見たのだが、そんな感想は全くもたなかった。
 これまで読んだ芥川賞に比べると、興味深く読めたのだが。面白いというと少し違う。クラスにおける孤独感の描写や、その状況など、細部にリアリティを感じるのだが、それでいて人間はこんなところでこんな動きをするものかという不自然さも同時に感じる。

 人間、言葉であらわせるものの方が実は非常に少ない。日本語は表現が豊かな言語だと思ってはいるのだが、それでも言葉というのは全てを表現する事は不可能。ゲームで、知力や体力だけの記号では個人を絶対に表現できないのと同じように、(それはそれで良いのだが)言葉と言う記号だけでは伝わらない物は圧倒的に多い。で、その表現できない感情の起伏や場の雰囲気などを、如何に伝えるか表現するかという物が文学の一つの目的であるというのが自分の位置付けであり、その意味では「蹴りたい背中」という作品から「蹴りたい背中」という感情は伝わってきた。それを伝える事がこの話の主題であるとすら言えるのではないか。
 で、その複雑であるはずのその感情そのものは自然に伝わるのがすごいところなのだが、その伝える為に用意された状況というのが、これは不自然な気がする。主題の感情が自然だが、そこより細かい状況設定が不自然、けれども更に細かい、学校の状況などのデティールは実に良い、とそんな感想。

 自分は、感情をはじめとする、「言葉」では伝えられない部分を「表現」、「技巧」で如何に伝えるか、という部分にはあまり興味が無く、そのためか文学は苦手である。作者が意図したその場の雰囲気、細やかな感情を受け入れる必要は必ずしもないというか、受け入れないで自分で想像する方が好きである。誤解を恐れずに書けば、心理的な部分に焦点を置いた文学は、受け取り手の自由度が低いのではなかろうか。

 作者は、なかなかに優秀な学校に通っていたのかと思った。人物と作者の距離が近いのではなかろうかな。余計な事だが。

カルトと宗教

2004年2月29日
 オウムの事件が再びクローズアップされている今日この頃。

 あの事件以来「カルト」と言う言葉が多用されるようになったと思うが、「カルト」と「宗教」はどこか違いがあるのだろうか。

 自分には違いがあるようには思えない。単に、新しいかそうでないかの違いがそこにはあるだけではなかろうか。人間と同じように、若者ほど急進化するとも言えるし、国家と同じように、弱いものほど排外的になっているとも言える。具体例をあげると刺されそうだが、歴史上の世界宗教の開祖も、実はあんなもんだったんじゃないかと思う。時とともに角が取れ、甘美な色に脚色された「奇跡」が伝わっているわけだ。

 だからと言うか、オウムを「カルト」とレッテル貼りして、切り離す考え方には賛同できない。あれは本当の宗教じゃない、とする考え方は承服しかねる。
 勿論、宗教には利点もある。
 しかし、どんな教えにもああいった側面を併せ持っている。何もオウムが特別な訳ではない。だからこそ、幾多の宗教が顔をつき合わせている現代、人は宗教の御し方を理性を以って知っておかねばならないのだろう。

素直。

2004年2月27日
 これから社会人になるにあたって、一つには素直さを大事にしていきたいと思っている。

 「だってオレ、〜〜だもん」
 小学生の頃、たまにこういう言い方をする奴がいた。理由になっていない理由、とでも言うのだろうか。ここに、「塾」や「習い事」を当てはめてみると、色々と思い当たる節も多い。遊びの約束ならば分かるのだが、皆で何かを練習する時にこの言い方は免罪符には、本来ならない筈ではある。ごめん、と謝るべきところを、逆に強く出る人も多かった。ま、当時は特に何も思わなかったと思うが、それでも「家族で海外に行くから」という理由には不可解な思いをした記憶がある。

 こういうメンタリティーから抜け出せていないのかどうかは分からないが、齢20を過ぎて中盤に差し掛かろうとして尚、この言い方を耳にする事が多い。それも、小学生より更に子供じみた言い方で。
 「だってオレ、短気だし。」「ワタシ、〜〜嫌いだから」
 
 「開き直り癖」とでも言うべきだろうか。自分の責任であること、他の何物の責任でもない事であるのに、「だから仕方ない」とでも言わんばかりの言い方をする人間が非常に多い気がしてならない。先だっても、「オレ、煙草吸わないとダメだから」というセリフを耳にした。(勝手にダメになれ、と言いたい。)

 そもそも、この言い方を耳にする時は、それが会話になっていない時がほとんどだ。謝罪を求める言い方をしているのに、弁明をする(弁明になっていないが)。おまえの理由なんてどうだっていいから一言謝れないのかと思わざるを得ない。

 思うに、自分と、自分の中の要素を切り離して、その要素に責任を押し付けることで、自分は悪くない、とでも言いたいのかもしれない。先輩や上司には謝れても、同年代には頭が下げられないのかもしれない。よくは分からないが。ともあれ、そんな責任転嫁になっていない責任転嫁では、意味の分からない言い訳をする小学生と、それこそ違いは無い。

 相手が誰であろうと素直にな。と言うか、「開き直り」は見苦しいという事を念頭においていきたいものだ。

帰ってきた

2004年2月24日
 中国から昨日の夜、帰ってきた。
 途端に今日は誕生日。
 明日は健康診断と配属決定。 
 明後日は社宅説明会と、その社宅の抽選。

 忙しいといえば忙しい。誕生日が一番ヒマというのもいかがな物か。

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